「マイケル・クライトン」の版間の差分

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== 学生時代まで ==
[[イリノイ州]][[シカゴ]]にてジョン・マイケル・クライトンとして生まれる<ref>[http://www.state.il.us/hpa/Illinois%20History/Mover206.pdf "Michael Crichton’s Mark on the Science Fiction World"]; [http://www.filmbug.com/db/22387 "Michael Crichton"]; [http://www.centerstage.net/literature/whoswho/MichaelCrichton.html "Michael Crichton"]; [http://filmforce.ign.com/articles/403/403447p1.html Profile] by [[IGN]]; [[Internet Movie Database|IMDB]]のエントリはこちら[http://www.imdb.com/name/nm0000341/]</ref>。父はジャーナリスト。2人の姉妹と弟が1人いる。[[ニューヨーク州]]の[[ロングアイランド]]で育った<ref name="kids">Crichton, Michael. [http://www.michaelcrichton.com/foryoungerreaders-qa.html "For Younger Readers"], michaelcrichton.com, 2005. Retrieved December 11, 2005.</ref>。子供のころから文章を書くのが好きで、14歳のときには[[ニューヨーク・タイムズ]]の旅行関連のコラムに文章が採用されたことがある<ref name="Telegraph"/>。そのころから作家を志していた。1960年、[[ハーバード大学]]の[[ハーバード・カレッジ]]に入学<ref name="Telegraph"/>。そこで、彼の作風を批判して異常に低い点をつける文学の教授に出会い、ある実験を試みることにした。彼はその疑惑を他の教授に伝えた上で、[[ジョージ・オーウェル]]の作品を故意に[[盗作|盗用]]したレポートを問題の教授に提出した。するとその教授は "B-" の評価をつけてレポートを返したという<ref>[http://books.guardian.co.uk/departments/sciencefiction/story/0,,1962747,00.html King of the techno-thriller], The Observer, December 3, 2006</ref>。こうした問題もあって、クライトンは英文学から[[自然人類学]]に転向し、そちらで1964年に[[学士]]号を取得した<ref>[http://www.crichton-official.com/aboutmichaelcrichton-biography.html About Michael Crichton] 公式サイト</ref>。1965年には[[ケンブリッジ大学]]で[[人類学]]の客員講師を務めたこともある。
 
その後[[ハーバード・メディカルスクール]]に入学し、同時に作家活動を開始した。そのころ使った[[ペンネーム]]がジョン・ラング (John Lange) とジェフリー・ハドソン (Jeffery Hudson) である。"Lange" はドイツ語の姓で "long" を意味する。ジェフリー・ハドソンは[[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス|ヘンリエッタ・マリア]][[王妃]]に仕えた有名な[[小人症|小人]]である。どちらもクライトンの背が非常に高いことから発想したペンネームだった。『インナー・トラヴェルズ』の中で、彼が作者と知らずに『[[アンドロメダ病原体]]』(この作品はマイケル・クライトン名義で出版)の医学的間違いについてドクターたちが話していたというエピソードを語っている。ハドソン名義で出版した『[[緊急の場合は]]』で1969年の[[アメリカ探偵作家クラブ#エドガー賞|MWA賞]]を受賞。また、弟のダグラスと ''Dealing'' という小説を合作し、マイケル・ダグラス (Michael Douglas) 名義で出版した。その本の裏表紙には母親が撮影した幼いころの兄弟の写真を使っていた。