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{{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}
=== 創業とApple I ===
[[ファイル:Apple_1_Woz_1976_at_CHM.agr_cropped.jpg|thumb|250px|[[コンピュータ歴史博物館]]に展示される[[Apple I]]。Apple Iはむき出しの[[マザーボード]]として販売され、使用するにはキーボードや電源装置、モニタユーザーが用意して組み立てる必要があった。]]
[[1975年]]、大学を中退し[[アタリ (企業)|アタリ]]の技術者として働いていた[[スティーブ・ジョブズ]]と、その友人で[[ヒューレット・パッカード]] (HP)に勤務していた[[スティーブ・ウォズニアック]]は、[[シリコンバレー]]のコンピュータマニアによる「'''[[ホームブリュー・コンピュータ・クラブ|ホームブリュー・コンピュータ・クラブ (HCC)]]'''」の会合に頻繁に参加していた<ref>{{Cite book |ref={{harvid|O'Grady|2009}}|first=Jason D. |last=O'Grady |year=2009 |title=Apple Inc. |publisher=ABC-CLIO |isbn=9780313362446}}p. 4</ref><ref>{{Cite book |ref={{harvid|Linzmayer|2004}}|first=Owen W. |last=Linzmayer |year=2004 |title=Apple Confidential 2.0: The Definitive History of the World's Most Colorful Company |publisher=No Starch Press |isbn=9781593270100}} pp. 2-4</ref>。ウォズニアックは、当時マニアの間で高く評価されてた[[Intel 8080]]の代わりに、安価な[[MOS 6502]]を処理装置とするコンピュータの自作を開始し、[[1976年]]3月までに[[Apple I]]の原型となるマシンを独力で完成させた{{sfn|Linzmayer|2004|pp=4-5}}。ウォズニアックは完成したコンピュータをHCCの会合に持ち込んで披露したが、それを目にしたジョブズはこのマシンが持つ商業的可能性に興味を抱き、[[プリント基板|プリント配線板]]を商品化するようウォズニアックを説得した{{sfn|Linzmayer|2004|pages=5-6}}{{sfn|O'Grady|2009|page=3}}。2人は当初、それぞれの勤務先であるHPとアタリに製品化を提案したが却下されたため、自ら起業して製造・販売を行うことにした{{sfn|Linzmayer|2004|pages=5-6}}。
 
1976年4月1日、ジョブズとウォズニアックに{{ill2|ロナルド・ウェイン|en|Ronald Wayne}}を加えた3人は、共同で「'''アップルコンピュータ・カンパニー (Apple Computer Company)'''」を創業した<ref name=ACC>{{cite news |first=Rhiannon |last=Williams |title=Apple celebrates 39th year on April 1 |url= https://www.telegraph.co.uk/technology/apple/11507451/Apple-celebrates-39th-year-on-April-1.html |website=[[The Daily Telegraph|The Telegraph]] |publisher=[[Telegraph Media Group]] |date=April 1, 2015 |accessdate=June 30, 2019}}</ref>。アタリで[[製図工]]として働いていたウェインは、株式の10%を持つことを条件としてジョブズに誘われ会社に加わった(ジョブズとウォズニアックはそれぞれ45%の株式を所持した){{sfn|Linzmayer|2004|pages=5-6}}。ウェインはアップル社の最初の製品であるApple Iのマニュアルを作成したほか<ref name=ACC/>、リンゴの木と[[アイザック・ニュートン]]が描かれた最初期のロゴマークをデザインした{{sfn|Linzmayer|2004|pages=5-6}}。
 
Apple Iの[[プリント基板|プリント配線板]]を製造・販売する資金を得るため、ジョブズは愛車の[[フォルクスワーゲン・タイプ2|ワーゲンバス]]を1500ドルで、ウォズニアックはHPの[[プログラム電卓]]を250ドルで売り払った{{sfn|Swaine|2014|pages=337-338}}{{sfn|Linzmayer|2004|pages=5-6}}。個人以外の販路を求めたジョブズは、[[マウンテンビュー]]のコンピュータ店「バイトショップ (Byte Shop)」の経営者{{ill2|ポール・テレル|en|Paul Terrel}}にApple Iを売り込んだ<ref>{{Cite book |ref={{harvid|Swaine|2014}}|first=Michael |last=Swaine |year=2014 |title=Fire in the Valley: The Birth and Death of the Personal Computer |publisher=Pragmatic Bookshelf |isbn=9781680503524}}p. 337</ref>。強い興味を持ったテレルはすぐにApple Iを50台注文し、納品時に1台につき500ドル(合計2万5000ドル)を現金で支払うと約束したが、テレルが注文したのはApple Iのプリント配線板ではなく、パーツが全て装着済みの完成品だった{{sfn|Linzmayer|2004|page=7}}。手持ちの資金では必要な数の部品が購入できなかったため、ジョブズらは部品サプライヤーを説得して30日間の支払猶予付きでパーツを購入し、懸命な作業で29日後には50台のApple Iを完成させ、テレルの店に納品して約束の代金を受け取った{{sfn|Swaine|2014|pages=337-338}}{{#tag:ref|ジョブズらが「完成品」として納品した50台のApple Ⅰは、必要なパーツがプリント配線板に装着されたマザーボードだけの状態であり、テレルが「完成品」として想定していた筐体やモニタ、キーボードなどを持つコンピュータとはかけ離れたものだった<ref name=LZ8>Linzmayer 2004, p. 8</ref>。テレルはそれでも約束の代金を支払い、ジョブズらはその代金を使って期限内にパーツ代の支払いを完了した<ref name=LZ8/>。|group="注"}}。
 
Apple Iは1976年7月から[[希望小売価格]]666.66ドルで市販され、最終的に約200台が製造された<ref>{{cite news |url= http://news.bbc.co.uk/2/hi/technology/7091190.stm |work=BBC News |title=Building the digital age |accessdate=July 1, 2019 |date=November 15, 2007}}</ref>{{sfn|Linzmayer|2004|page=7}}。創業者の1人であったウェインは、ジョブズの野心的な経営方針に不安を抱いたため、800ドルを受け取って所有する株を放棄し、1976年4月12日にアップルを自主退社した{{sfn|Linzmayer|2004|page=7}}。
 
=== 法人化とApple II ===
[[ファイル:Apple II PlusApple_II_Plus cropped.jpg|thumb|250px|1979年6月に登場した[[Apple II]] Plus。同年10月に発売されたApple II専用[[表計算ソフト]]「[[VisiCalc]]」の大ヒットは販売を大幅に増加させた{{sfn|Linzmayer|2004|pages=13-15}}。]]
テレルとの取引で約8000ドルの利益を得たジョブズは、Apple Iを大量に製造・販売して事業を拡大することを望み、そのために多額の資金が必要となった<ref name=LZ8/>。ジョブズは[[セコイア・キャピタル]]の創業者[[ドン・バレンタイン]]に融資を求めたが、バレンタインはアップルコンピュータへの投資に興味を持たず、代わりに自分の元部下で、個人投資家として財を成していた[[マイク・マークラ]]を紹介した{{sfn|Linzmayer|2004|page=9}}。
 
当時34歳のマークラは若くして引退生活を送っていたが、ジョブズの野心とウォズニアックの技術的才能に心を動かされ、1976年11月に復帰しアップルに参加した{{sfn|Linzmayer|2004|page=10}}。マークラは自分の個人的資産から9万2000ドルを投資したほか、[[バンク・オブ・アメリカ]]から25万ドルの[[信用供与]]を確保した{{sfn|Linzmayer|2004|page=10}}。マークラは参加の条件として、ウォズニアックがアップルでの仕事にフルタイムで従事することを要求したため、ウォズニアックは迷った末にHPを退社した{{sfn|Swaine|2014|pages=346}}。
 
1977年1月3日、アップルコンピュータは[[法人]]化され、“'''Apple Computer, Inc.'''” となった{{sfn|Linzmayer|2004|page=10}}。マークラはアップルの成長には経験豊富な経営者が不可欠と考え、[[ナショナル セミコンダクター]]から元同僚の{{ill2|マイケル・スコット (アップル)|en|Michael Scott (Apple)|label=マイケル・スコット}}を引き抜いて初代社長兼CEOの座につけた{{sfn|Linzmayer|2004|page=11}}。スコットは1977年2月からアップルでの仕事を始め、社員番号を入れた社員証を発行するなど、会社をより組織的にするための施策を実行した{{sfn|Linzmayer|2004|page=11}}{{#tag:ref|社員番号1は、ウォズニアックに与えられたが、ジョブズはこれをスコットに抗議する。しかし、社員番号1を与えればジョブズの放漫が増すと考えたスコットはこれを拒んだ。ジョブズは結局、社員番号0(振込先の銀行が0番に対応していなかったので実務上は2)を手に入れることで妥協した。ちなみにマークラが3番、スコットが7番の社員番号であった(スコットは5番目の社員であったが、社員の増加を見込んで好きな数字を選んだ)|group="注"}}。
 
Apple IIは1977年4月16日に[[ウェスト・コースト・コンピュータ・フェア]]で発表され、小売価格1,298ドルで発売された{{sfn|O'Grady|2009|page=3}}{{sfn|Linzmayer|2004|page=12}}。ウォズニアックはHPを退社する以前からApple Iの改良作業を続けており、1976年8月にはすでに[[Apple II]]の実動するプロトタイプを完成させていた{{sfn|Linzmayer|2004|page=9}}{{sfn|Swaine|2014|pages=345}}。Apple IIは1977年4月16日に[[ウェスト・コースト・コンピュータ・フェア]]で発表され、小売価格1,298ドルで発売された{{sfn|O'Grady|2009|page=3}}{{sfn|Linzmayer|2004|page=12}}。むき出しの[[マザーボード]]として販売されたApple Iとは大きく異なり、Apple II本体はキーボードや電源装置と一体化されており、購入後す外部[[ディスプレイ (コンピュータ)|モニタ]]をつなだけでコンピュータとして使用することができたほか、外部[[ディスプレイ (コンピューモニ)|ディスプレイ]]へのカラー表示が可能なのも大きな特長だった{{sfn|O'Grady|2009|page=5}}{{sfn|Linzmayer|2004|page=12}}。販売は当初から好調だったが、1978年7月に発売された専用[[フロッピーディスク]]ドライブ「{{ill2|Disk II|en|Disk II}}」と、1979年10月に発売された専用の[[表計算ソフト]]「[[VisiCalc]]」が大ヒットを記録し、Apple IIの販売台数は爆発的に増加した{{sfn|Linzmayer|2004|pages=13-15}}。1980年には設置台数で10万台、1984年には設置ベースで200万台を超え、アップルに莫大な利益をもたらした。Apple II発売に際してApple Iを回収、無償交換キャンペーンでバージョンアップ対応したため現存するものは少ない。
 
=== 株式公開とApple III、Lisa ===
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| width = 180
| image1 = Apple3.jpg
| caption1 = 1980年に発売された[[Apple III]]。純正ディスプレイモニタの{{ill2|Apple Monitor III|en|Apple Monitor III}}を上に載せている。
| image2 = Apple_Lisa-2-IMG_1730_modified.png
| caption2 = 1983年に発売された[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]]。当時としては先進的な機能を装備していたが、価格の高さから商業的には失敗した。
}}
[[1980年]]12月12日、アップルコンピュータは新規[[株式公開]] (IPO) を行い、1956年に自動車会社[[フォード・モーター|フォード]]が行ったIPO以来となる記録的な規模の資金調達を果たした{{sfn|O'Grady|2009|page=6}}<ref>{{Cite book |ref={{harvid|Dormehl|2012}}|first=Luke |last=Dormehl |year=2012 |title=The Apple Revolution: Steve Jobs, the Counterculture and How the Crazy Ones Took over the World |publisher=Random House |isbn=9781448131365}} p. 137</ref>。IPOにより、750万株を持っていたジョブズが得た資産は2億5600万ドルを超える資産を手入れ達し<ref>{{Cite book |和書 |author=ブレント・シュレンダー、リック・テッツェリ |translator=[[井口耕二]] |title=スティーブ・ジョブズ 無謀な男が真のリーダーになるまで(上) |date=2016-09-23 |publisher=[[日本経済新聞出版社]]|isbn=978-4532321000|page=104}}</ref>
 
株式公開に先立つ1980年5月、アップルはビジネス向けに特化された[[Apple III]]を発表し、当時'''青い巨人''' (''Big Blue'') と呼ばれていた[[IBM]]にビジネス用コンピュータ市場で挑戦を仕掛けたが、4,340ドル-7,800ドルという価格設定の高さと、ハードウェアの設計上の欠陥がわざわいし、Apple IIIは商業的な失敗作に終わった{{sfn|O'Grady|2009|page=6}}。他方、IBMは1981年に[[IBM PC]]を発表して[[パーソナルコンピュータ]]市場へ参入し、アップルとIBMの競争は激化した。IBM PCの発売に際して、アップルは[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]に “'''Welcome, IBM. Seriously'''” と題した挑戦的な全面広告を出したが{{sfn|Swaine|2014|pages=434}}、Apple IIは次第にIBMにシェアを奪われ、新しい製品が待望されるようになった。
 
前後して、[[1978年]]にジョブズらがApple IIを打ち破る次世代パーソナルコンピュータの概念を練り上げるための[[ブレインストーミング]]が始まり、[[1979年]]の秋に2000ドル台のビジネス向けを念頭においた[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]]プロジェクトが立ち上げられた<ref>Lisaの名前は、ジョブズが当時付き合っていた女性との非嫡出子の名前からとったとされているが、ジョブズ本人はその娘の名前からとったことは認めていない。</ref>。この頃、ジョブズは[[ゼロックス]]にAppleの株式と交換に[[パロアルト研究所]]の見学を申し出る。ゼロックスの役員は特に意識していなかったのだが、現場の開発者からは「ジョブズが来るということは盗用されてもおかしくない」という不満の声もあった。しかし、結果的に見学の申し出は受け入れられ、1979年の11月と12月の2回に渡り見学が行われた。先進的な[[Smalltalk]]で動く[[GUI]]を持ち、[[ビットマップ画像|ビットマップ]]ディスプレイと[[マウス (コンピュータ)|マウス]]で操作される[[Alto]]のデモにインスピレーションを得たジョブズは、Lisaにアルトと同じ機能を持たせることを意図し、設計に過剰に介入をし始めた。ジョブズがLisaプロジェクトを混乱させている原因と考えた社長のスコットは、1980年の秋にジョブズに株式公開のための仕事を割り当てて、Lisaプロジェクトのメンバーからジョブズを外した。