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[[中国]]では古代には木で碁石を作ったらしく、中国[[呉 (三国)|呉]]の時代([[222年]] - [[280年]])に書かれた『博奕論』(韋曜)に「枯棊三百」 と記されている。「枯棊」とは、木でできた碁石のことを指し、[[日本]]の[[寛永]]年間([[1624年]] - [[1644年]])の『玄玄棊經俚諺鈔』という解説本には、「碁石は元と木を似て造る、故に枯棊と云う」と注記している。また碁石は300個が定数であったことも記されている。時代が下ると、高級な碁石は「[[玉]](ぎょく)」と呼ばれる一種の[[宝石]]から作られた。
 
中国[[唐]]代の『[[:zh:s:杜陽雜編|杜陽雑編]]』という書物に、宣宗帝年号[[大中]]年間([[847年]] - [[860年]])に日本一の碁の名手である日本の王子が来朝し、中国一の名手と対戦する逸話<ref>この逸話の概要は以下のようなものである。「遣唐使として皇帝と会見した日本の王子が、日本一の碁の名手を名乗り『国の名誉を賭け、唐の名手と対戦したい』と碁の勝負を申し入れた。そこで皇帝は碁の国手といわれた大臣の顧師言を呼び出し、日本の王子と対局させた。双方の実力は互角で序盤から互いに譲らぬ激闘となったが、御前試合で君命を辱めることを恐れた顧師言が汗を振り絞った思考の末、三十二手目に死に物狂いの名手を放ち、それを見た日本の王子は驚嘆し、遂に兜を脱いだ。対局の後で王子は外使の接受担当の鴻臚卿に『顧先生は貴国で何番目の名人なのか』と質問し、鴻臚卿は『三番目であります』と返答した。実際は顧師言は国一番の名手だったのだが、日本の名人と対等勝負だったので、唐の体面を考慮して嘘をついたのだった。日本の王子は不服顔で『唐で一番の名手と対局したい』と言った。鴻臚卿は動ぜず『第三を破って第二と対局し、第二を破って第一と対局できるのです。なぜにいきなり第一と対局できましょう』と答えた。日本の王子は碁盤に蓋をして『小国の第一は、ついに大国の第三に及ばぬのか』と嘆息した」 {{要出典範囲|date=2019-4|この対局の棋譜は「[[玄玄碁経]]に記録され、現代に伝わっている}}。</ref>の記載がある。日本の王子は日本には冷暖玉という宝石の碁石があることを物語り、「本國の東に集真島有 島の上に凝霞臺とて臺上に手譚池あり 池中に玉子を出す 製度によらされども自然に黒白明分有 冬ハ暖く夏は冷也 故に冷暖玉とぞにいふ 日本の王子入唐して此石を冷暖玉として唐朝へ進上せらると載たり」と記されている。 玉の碁石は割れやすく、日本のように音を立てて盤に打ち付けるということはなかった。中には石一個が銀貨二枚に相当するとされるほど高価なものもあったが、かつての名品の多くが、碁は退廃的として攻撃された[[文化大革命]]時代に収集家から奪われるなどして散逸してしまった。
 
== 碁石の素材 ==