「コンスタンティン・チェルネンコ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
60行目:
[[1931年]]に[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]に入党。軍を除隊後、クラスノヤルスク地方党宣伝部副部長となる。[[第二次世界大戦]]中はクラスノヤルスク地方党書記を務めた。モルダビア(現[[モルドバ]])・[[キシニョフ]]教育大学を卒業し、大戦終結後の[[1945年]]に[[ペンザ州]]党書記を経て、[[1948年]]、モルダビア共和国共産党中央委員会宣伝扇動部長となる。このときのモルダビア共産党第一書記がブレジネフであった。
 
ブレジネフの知遇を得たチェルネンコは、[[1956年]]、ソ連共産党宣伝部大衆煽動活動課長に登用される。以後、ブレジネフの側近として昇進を続け、[[1960年]]、ブレジネフが[[最高会議幹部会議長]]に就任すると同時に、彼の首席補佐官に就任。[[1964年]]、[[ フルシチョフ]]が失脚し、ブレジネフが[[ソ連共産党書記長|第一書記]](のち書記長)に就任してからは、「書記長官房」の異名を取る[[ソビエト連邦共産党中央委員会|ソ連共産党中央委員会]]総務部長に指名され、政治局の議題の設定や、[[ソ連共産党中央委員会|中央委員会]]の多数の法案と決議案を準備するという任務や、さまざまな党幹部の電話を盗聴し、行動を監視するという任務を司った。さらにまた、毎日何百もの党文書に署名する仕事が与えられ、総務部長就任以来20年間に渡って、書記長に就任してなおも総務部から提出された文書に署名し続けた。加えて、中央委員会に投書部を設け、下僚の意見を積極的に吸い上げようとした。
 
[[1971年]]、中央委員会委員に昇進。[[1976年]]、[[ソ連共産党書記局|書記局]]書記に選出された。さらに、[[1977年]]に[[ソ連共産党政治局|政治局員候補]]に、[[1978年]]には政治局員へと昇進した。
 
[[1982年]]のブレジネフの死去後はアンドロポフが後任の書記長に就任したため、失脚の危機もあったと考えられるが、アンドロポフの病気と死去、そして長年の総務部長勤めで築いた[[党官僚]]人脈を背景に勢力を維持した。