「コンスタンティン・チェルネンコ」の版間の差分

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ブレジネフ政権末期の頃には、党のイデオロギー担当の仕事に従事。外国訪問の際にはソ連代表を率いた他、重要な会議へはブレジネフに同伴して出席した。[[1977年]]には、ソ連憲法改正委員会の委員として働いた。
 
[[1982年]]1月の[[ミハイル・スースロフ]]の死後は、中央委員会第二書記の職務を代行し、実質的なソ連ナンバー2となった。同年11月のブレジネフの死に際しては、チェルネンコが後継書記長に選出されるとの観測があったが、党内で十分な支持を得ることができず、[[ユーリ・アンドロポフ]]が後任の書記長に就任した。故に失脚の危機もあったと考えられるが、アンドロポフの病気と死去、そして長年の総務部長勤めで築いた[[党官僚]]人脈を背景に勢力を維持した。
 
=== 書記長就任 ===