「コンスタンティン・チェルネンコ」の版間の差分

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'''コンスタンティン・ウスチーノヴィチ・チェルネンコ'''({{lang-ru|'''Константин Устинович Черненко'''}}、[[ラテン文字化|ラテン文字表記の例]]:{{Lang|en|Konstantin Ustinovich Chernenko}}、[[1911年]][[9月24日]]([[グレゴリオ暦]])/[[9月11日]]([[ユリウス暦]]) - [[1985年]][[3月10日]])は、[[ソビエト連邦]]の政治家。同国の第7代[[ソビエト連邦の指導者の一覧|最高指導者]]、第4代[[ソビエト連邦共産党書記長|ソビエト連邦共産党中央委員会書記長]]。チェルネンコの時代はその死によってわずか1年余りで幕を閉じた。これにより、[[レオニード・ブレジネフ]]、[[ユーリ・アンドロポフ]]と続く[[老人支配]]の時代の幕引き役を演じ、若い[[ミハイル・ゴルバチョフ]]に政権を委ねることになった。
 
== 生い立ちから権力の掌握まで==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[シベリア]]・[[クラスノヤルスク]]のノヴォショーロヴォ地区ボリシャヤ・テシ村の貧農の出身<ref>{{cite book|last=Jessup|first=John E.|title=An Encyclopedic Dictionary of Conflict and Conflict Resolution, 1945-1996|year=1998|publisher=Greenwood Press|location=Westport, CT|page=121|url=https://www.questia.com/read/106899354/an-encyclopedic-dictionary-of-conflict-and-conflict}} {{Subscription required|via=Questia}}</ref>。父親は鉱山で働き、母親は農作業に従事していた。チェルネンコ自身は、幼少時には富農(クラーク)に雇われて働いた。[[1929年]]に[[コムソモール]]に入り、[[1929年]]、ノヴォショーロヴォ地区宣伝・煽動部長。翌[[1930年]]に軍に志願し[[ソ連]]-[[中華民国の歴史|中国]]間の国境警備隊に配属される。
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[[1982年]]1月の[[ミハイル・スースロフ]]の死後は、中央委員会第二書記の職務を代行し、実質的なソ連ナンバー2となった。同年11月のブレジネフの死に際しては、チェルネンコが後継書記長に選出されるとの観測があったが、党内で十分な支持を得ることができず、[[ユーリ・アンドロポフ]]が書記長に就任した。故に失脚の危機もあったと考えられるが、アンドロポフの病気と死去、そして長年の総務部長勤めで築いた[[党官僚]]人脈を背景に勢力を維持した。
 
=== 書記長就任 ===
[[1984年]]2月、チェルネンコは、アンドロポフの死に伴い、[[ソビエト連邦共産党書記長|ソ連共産党中央委員会書記長]]に就任し、同年4月からは、[[国家元首]]である[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]]を兼務することになった。しかし就任当初から健康状態がすぐれず、アンドロポフの葬儀に参列した[[イギリス]]の[[社会民主党 (イギリス)|社民党]]党首で[[医師]]でもあった[[デイヴィッド・オーウェン]]は、「チェルネンコ氏は[[肺気腫]]を患っていると思われる」との見解を示した。皮肉にも1年後のチェルネンコの死によって、オーウェンの「診断」の正しさが証明される格好になった。また、ソ連国歌が演奏され、アンドロポフが埋葬される際にも、他の政治局員が居並んで敬礼する中、チェルネンコ1人だけが満足に敬礼することもできず、途中で手を下ろしてしまう場面は、彼の体力の衰えを国内外に印象付けた。
 
こうした病状やその短い任期から目立った業績は無いものの、教育面では技術・専門教育を重視する改革へ着手した。また、重要人事を断行する力はないと思われていたが、1984年[[9月6日]]にソ連軍の制服組トップで、党に対し批判がましい言動を繰り返していた[[参謀総長]]・[[ソ連邦元帥]]の[[ニコライ・オガルコフ]]を電撃的に解任し、オガルコフの後任の参謀総長に[[セルゲイ・アフロメーエフ]]を任命し世界を驚かせた。ただしオガルコフの解任については、チェルネンコの夏期休暇明け翌日の政治局会議で尚且つ[[グリゴリー・ロマノフ]]の海外出張中に決定されたという状況から、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]などの非チェルネンコ派によるチェルネンコ人脈の切り崩しだという見方も存在する。
 
=== 「只今よりアメリカ軍及び日本軍と交戦状態に入る」 ===
[[1984年]]、「只今より極東地域でアメリカ軍及び日本軍と交戦状態に入る」という電文を極東ソ連軍からモスクワに向けて発信させた。これは日米両政府を大いに慌てさせた。だが、しばらくして極東ソ連軍は動員体制に入っていないことが確認された。
 
日米両政府はこれを当初「誤報か演習だったと見られる」と判断したが、のちにゴルバチョフの[[グラスノスチ]]によって、[[ロナルド・レーガン]]大統領による「[[我々は5分後に爆撃を開始する]]」という[[ジョーク]]・アナウンスに対する“報復”だったことが判明した。
 
=== 死去 ===
当時、在モスクワ[[日本大使館]]政務[[専門調査員]]だった[[秋野豊]]によると書記長就任直後からチェルネンコが何を話すかより、一分間に何回、呼吸をしているのかによって健康状態を知ろうとしていたという。また、病院へ入院しているチェルネンコの病室をあたかも執務室に見せかけ、テレビや新聞などで報道された。このとき、背広を着たチェルネンコの体を支える随行員の手が写真などに写っていた[https://www.youtube.com/watch?v=LsMHfT6TRx0&t=50s]。
 
1985年3月10日、チェルネンコは息を引き取った。医師団によると、チェルネンコは長年患っていた[[肺気腫]]の悪化による心肺機能不全による心拍動の停止が死因と発表された。
 
5日間の喪服期間の後、[[赤の広場]]で国葬が執り行われ、後継者となった[[ミハイル・ゴルバチョフ]]が葬儀委員長を務めた。葬儀には日本の[[中曽根康弘]]首相や[[安倍晋太郎]]外務大臣も参列した。
 
就任から1年余りの死であり国民には不人気な書記長であったが、一家の家長としてはかけがえのない人物であった。妻のアンナは葬儀の際、溢れ出る涙を流しながら亡夫にキスをし続けたという。
ソ連時代の秘密主義によって、前任のアンドロポフ同様妻帯している事実が葬儀の席上で初めて対外的に判明した<ref>[[木村汎]], [[皆川修吾]], [[西村可明]] ほか 共著 「ソビエト研究 ソ連を知りたい人のために」教育社 1985年11月15日、p.6</ref>。
 
なお、[[2019年]]現在、チェルネンコが[[赤の広場]]の元勲墓に埋葬された最後の人物である。
 
== 脚注 ==