「コンスタンティン・チェルネンコ」の版間の差分

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== 最高指導者として ==
=== 書記長就任 ===
[[1984年]]2月、チェルネンコは、アンドロポフの死に伴い、[[ソビエト連邦共産党書記長|ソ連共産党中央委員会書記長]]に就任し、同年4月からは、[[国家元首]]である[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長|最高会議幹部会議長]]を兼務することになった。しかし就任当初から健康状態がすぐれず、アンドロポフの葬儀に参列した[[イギリス]]の[[社会民主党 (イギリス)|社民党]]党首で[[医師]]でもあった[[デイヴィッド・オーウェン]]は、「チェルネンコ氏は[[肺気腫]]を患っていると思われる」との見解を示した。皮肉にも1年後のチェルネンコの死によって、オーウェンの「診断」の正しさが証明される格好になった。また、[[ソ連国歌]]が演奏され、アンドロポフが埋葬される際にも、他の政治局員が居並んで敬礼する中、チェルネンコ1人だけが満足に敬礼することもできず、途中で手を下ろしてしまう場面は、彼の体力の衰えを国内外に印象付けた。
 
こうした病状やその短い任期から目立った業績は無いものの、教育面では技術・専門教育を重視する改革へ着手した。また、重要人事を断行する力はないと思われていたが、1984年[[9月6日]]にソ連軍の制服組トップで、党に対し批判がましい言動を繰り返していた[[参謀総長]]・[[ソ連邦元帥]]の[[ニコライ・オガルコフ]]を電撃的に解任し、オガルコフの後任の参謀総長に[[セルゲイ・アフロメーエフ]]を任命し世界を驚かせた。ただしオガルコフの解任については、チェルネンコの夏期休暇明け翌日の政治局会議で尚且つ[[グリゴリー・ロマノフ]]の海外出張中に決定されたという状況から、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]などの非チェルネンコ派によるチェルネンコ人脈の切り崩しだという見方も存在する。