「前神寺」の版間の差分
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役の行者([[役小角]])が石鎚山の頂上を目指すもあまりの厳しさで諦めて下山しようとしたとき、斧(鈇)を砥石で磨ぐ老人に出会い、行者が問うと曰く「之は磨いて針にするのだ」と、この言葉に行者は挫折してはならない「成せば成る」と自分に言い聞かせ再び頂上に向かい、ついには登り着き修行を続けると釈迦如来と阿弥陀如来が衆生の苦しみを救済するため合体し石鈇[[蔵王権現]]となって現れたのを感得した。その後、行者が当地(現在は[[石鎚神社]]中宮成就社のある場所)まで下山してきたとき「わが願い成就せり」と云ったといわれる。そして、その尊像を彫って祀ったのが当寺の開基とされている。
後に石仙<ref group="注釈">石仙はまたの名を灼然といい、法安寺(西条市小松町、飛鳥時代創建)の住職であったという。[[横峰寺]]や[[妙雲寺]]を開創した。(西條史談 第63号 19ページ)</ref>(しゃくせん)が当地に堂を建て常住舎と云われた。そして、弟子の[[寂仙]]<ref group="注釈">仏門に入る前は上仙と呼ばれ、正法寺(新居浜市大生院、真言宗御室派石鈇山往生院正法寺、奈良時代開創)や満願寺(廃寺)などを開創した。また、[[嵯峨天皇]]に生まれ変わったという転生伝説がある。</ref>が山頂への登山道を整備した。[[桓武天皇]]([[782年]]〜[[805年]])が病気を患った時、常住舎で平癒の[[祈願]]をし[[成就]]したことによって当地に[[七堂伽藍]]が建てられ勅願寺とし「金色院前神寺」の称号を下賜され、石仙には菩薩号を賜ったと伝えられる。さらに[[空海]](弘法大師)が19歳(793年頃)の時に石峯(石鎚山)に跨りてと『三教指帰』に自ら記されているように当山で修行をし、後年、当寺を巡錫している。また、[[文徳天皇]]、[[高倉天皇]]、[[後鳥羽天皇]]、[[順徳天皇]]、[[後醍醐天皇]]など多くの歴代[[天皇]]の[[信仰]]が厚かったことでも知られ、当寺(常住)に1591年伊予の領主となった福島正則が参籠した。徳川家にも崇敬され1610年豊臣秀頼が
江戸時代初期には、札所としての便宜をはかるため麓の橘郷に出張所として里寺納経所で通称里前神寺(現在の石鎚神社口之宮本社の場所)を設置したため、本寺を通称として奥前神寺と呼ぶようになった。真念の『四国遍路道指南(1687年刊)』には、里前神寺は前札所で本札所は麓より12里の石づち山前神寺(奥前神寺)と書かれていて、寂本の『四国遍礼霊場記(1689年刊)』には、奥前神寺は本堂護摩堂その他堂宇相連なり本社は拝殿釣殿奥殿の重層で多数の摂社がありと壮大な伽藍であったことを表している。なお、奥前神寺から山頂弥山への登拝は、6月1日から3日の三日間しか許されていなかった<ref>寂本『四国遍礼霊場記』の里前神寺の項より</ref>。
1700年代初期頃には石鈇山の別当を名乗るようになっていた[[横峰寺]]への対抗からも本寺機能は里前神寺に移っていたが、納経は「石鈇山大悲蔵王権現 別當前神密寺 里寺納経所」<ref>文政8年(1825)の巡拝による</ref>と書かれていて、別当職の独占を守っていたが、ついに明和6年(1769)<ref group="注釈">その裁定が文政8年(1825)であるという説もあり</ref>幕府の裁定を受け、勝つことができ、別当の専称と奥前神寺の管理権が確保できたので、奥前神寺は常住社、里前神寺は前神寺と称するようになった。その後の『四国遍礼名所図会(1800年刊)』を見ると最上段に本社(蔵王権現社)<ref group="注釈">1689年刊の寂本の本にはこの建物は描かれていない</ref>があり一段下に本堂(石鈇社)さらに下に大師堂さらに下に本坊と現在の石鎚神社口之宮本社と同じ配置の広大な伽藍になっており本寺機能が里に移されているのがわかり、「石鈇山は常に参ることが出来ないためここで拝す」と書かれていて64番札所も里に確定している。
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