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[[ファイル:Tokugawa Ieyasu2.JPG|220px|right|thumb|[[徳川家康]]]]
(1603年~1700年頃)
{{関連記事|武断政治|文治政治}}
 
[[徳川家康]]は[[征夷大将軍]]に就くと、自領である江戸に幕府を開き、ここに[[江戸幕府]](徳川幕府)が誕生する。[[豊臣秀吉]]死後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、[[大坂の陣]](大坂の役)により[[豊臣氏]]勢力を一掃。[[平安時代]]以降、700年ちかく続いた政局不安は終焉を迎えた。以後260年以上続く長期安定政権の基盤を確立し、「[[元和偃武]]」とよばれる平和状態が日本にもたらされた。
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(1700年頃~1750年頃)
 
==== 文化・文政元禄期~正徳期 ====
{{main|正徳の治}}
元禄時代の経済の急成長により、[[貨幣経済]]が農村にも浸透し、四木([[クワ|桑]]・[[漆]]・[[ヒノキ|檜]]・[[コウゾ|楮]])・三草([[ベニバナ|紅花]]・[[アイ (植物)|藍]]・[[アサ|麻]]または[[木綿]])など'''[[商品作物]]'''の栽培が進み、漁業では上方漁法が全国に広まり、[[瀬戸内海]]の沿岸では[[入浜式塩田]]が拓かれて[[塩]]の量産体制が整い各地に流通した。[[手工業]]では[[綿織物]]が発達し、伝統的な[[絹織物]]では高級品の[[西陣織]]が作られ、また、[[灘五郷]]や[[伊丹市|伊丹]]の[[酒造業]]、[[有田町|有田]]や[[瀬戸市|瀬戸]]の[[窯業]]も発展した。やがて、[[18世紀]]には農村工業として[[問屋制家内工業]]が各地に勃興した。
 
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このような経済の発展は、[[院内銀山]]などの鉱山開発が進んで[[金]]・[[銀]]・[[銅]]が大量に生産され、それと引き替えに日本国外の物資が大量に日本に入り込んだためでもあったが、18世紀に入ると減産、枯渇の傾向が見られるようになった。それに対応したのが、[[新井白石]]の[[海舶互市新例]](長崎新令)であった。彼は、幕府開設から元禄までの間、[[長崎貿易]]の決済のために、[[金貨]]国内通貨量のうちの4分の1、[[銀貨]]は4分の3が失われたとし、[[長崎奉行]][[大岡清相]]からの意見書を参考にして、この法令を出した。その骨子は輸入規制と商品の国産化推進であり、長崎に入る異国船の数と貿易額に制限を加えるものであった。清国船は年間30艘、交易額は銀6000貫にまで、オランダ船は年間2隻、貿易額は3000貫に制限され、従来は輸入品であった綿布、[[絹|生糸]]、[[砂糖]]、[[皮革|鹿皮]]、絹織物などの国産化を奨励した。
 
==== 徳川吉宗の幕政(享保の改革) ====
{{main|享保の改革}}
[[ファイル:Tokugawa Yoshimune.jpg|250px|right|thumb|[[徳川吉宗]]]]
 
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(1750年頃~1850年頃)
 
==== 田沼意次の幕政(田沼時代) ====
{{main|田沼時代}}
[[ファイル:MatsudairaTanuma Sadanobu 2Okitsugu2.jpg|160px250px|right|thumb|[[松平定信田沼意次]]]]
幕府財政は、享保の改革での[[年貢]]増徴策によって年貢収入は増加したが、[[宝暦]]年間([[1751年]] - [[1763年]])には頭打ちとなり、再び行き詰まりを見せた。これを打開するため、発展してきた商品生産・流通に新たな財源を見出し、さらに大規模な[[新田開発]]と[[蝦夷地]]開発を試みたのが[[田沼意次]]であった。
 
田沼は、それまでの農業依存体質を改め、[[重商主義]]政策を実行に移した。商品生産・流通を掌握し、物価を引き下げるため手工業者の仲間組織を[[株仲間]]として公認、奨励して、そこに[[運上]]・[[冥加]]などを課税した。銅座・朝鮮人参座・真鍮座など[[専売制]]実施足掛かりとして、[[座]]と呼ばれる組織複数置し各分野ごとの販売独占権を[[専売制真鍮座]]を実施しなどの座に与えた。町人資本による[[印旛沼]]・[[手賀沼]]の干拓事業、さらに長崎貿易を推奨し、特に[[俵物]]など輸出商品の開発を通じて金銀の流出を抑えようとした。また、[[蘭学]]を奨励し、[[工藤平助]]らの提案によって[[最上徳内]]を蝦夷地に派遣し、新田開発や鉱山開発さらに[[アイヌ]]を通じた対[[ロシア帝国|ロシア]]交易の可能性を調査させた。
 
これらは当時としては極めて先進的な内容を含む現実的・合理的な政策であったが、[[松平定信]]などの敵対派が「[[賄賂]]政治」との[[ネガティヴ・キャンペーン]]を行い、[[天明の大飢饉]]とも重なって[[百姓一揆]]や[[打ちこわし]]が激発して失脚した。18世紀は[[北半球]]が寒冷化した[[小氷期]]の時代でもあったため、これが飢饉に拍車をかけたのである。
 
==== 松平定信の幕政(寛政の改革) ====
[[ファイル:Matsudaira Sadanobu 2.jpg|160px|right|thumb|[[松平定信]]]]
{{main|寛政の改革}}
[[ファイル:TokugawaMatsudaira IenariSadanobu 2.jpg|160px200px|left|thumb|[[徳川家斉松平定信]]]]
続いて田沼政治を批判した[[松平定信]]が[[1787年]](天明7年)に登場し、農本主義に立脚した[[寛政の改革]]を推進した。田沼時代のインフレを収めるため、質素倹約と風紀取り締まりを進め、超緊縮財政で臨んだ。抑商政策が採られて株仲間は解散を命じられ、大名に[[囲米]]を義務づけて、旧里帰農令によって江戸へ流入した百姓を出身地に帰還させた。また[[棄捐令]]を発して[[旗本]]・[[御家人]]らの救済を図るなど、保守的・[[理想主義]]的な傾向が強かった。
 
対外対策では、[[林子平]]の蝦夷地対策を発禁処分として処罰し、漂流者[[大黒屋光太夫]]を送り届けたロシアの[[アダム・ラクスマン]]の通商要求を完全に拒絶するなど、強硬な鎖国姿勢で臨んだ。[[七分積金]]や[[人足寄場]]の設置など、今日でいう[[社会福祉]]政策を行ってもいるが、思想や文芸を統制し、全体として[[町人]]・[[百姓]]に厳しく、旗本・御家人を過剰に保護する政策を採り、民衆の離反を招いた。また、重商主義政策の放棄により、田沼時代に健全化した財政は再び悪化に転じた。
 
==== 文化・文政期(大御所時代)====
[[ファイル:Tokugawa Ienari.jpg|160px|left|thumb|[[徳川家斉]]]]
{{関連記事|大御所時代}}
[[ファイル:HaiguotuzhiTokugawa Ienari.jpg|thumb230px|right|120pxthumb|『海国図志』[[徳川家斉]]]]
松平定信の辞任後<ref group="†">幕府の反対により典仁親王の尊号宣下を見合わせた事件、寛政4年(1792年)11月「尊号一件」で寛政5年(1793年)に辞職する</ref>、[[文化 (元号)|文化]]・[[文政]]時代から[[天保]]年間にかけての約50年間、政治の実権は11代将軍[[徳川家斉]]が握った。家斉は将軍職を子の[[徳川家慶|家慶]]に譲った後も実権を握り続けたので、この政治は「[[大御所 (江戸時代)|大御所]]政治」と呼ばれている。家斉の治世は、初め質素倹約の政策が引き継がれたが、貨幣悪鋳による[[出目]]の収益で幕府財政が一旦潤うと、[[大奥]]での華美な生活に流れ、幕政は放漫経営に陥った。上述の異国船打払令も家斉時代に発布されたものである。一方では、商人の経済活動が活発化し、都市を中心に庶民文化([[化政文化]])が栄えた。しかし、農村では貧富の差が拡大して各地で百姓一揆や村方騒動が頻発し、治安も悪化した。[[1805年]](文化2年)には[[関東取締出役]]が置かれた。水野忠邦はこれまでの世の中になかった変化の兆しを感じていた。各地の農民や町人による一揆、打ち毀し、強訴は例年起こっていた。文政6年(1823年)には摂津・河内・和泉1307か村による国訴は、綿の自由売り捌き、菜種の自由売り捌きを要求して、空前の規模の訴えとなり、これまでの経済の有り様を変えるものであった<ref>藤沢周平著 『藤沢周平全集 第17巻』 文藝春秋 1993年 420ページ</ref>。
</ref>。
 
発展する経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的な軋轢を内包しつつも、「泰平の世」を謳歌していた江戸時代も[[19世紀]]を迎えると、急速に[[制度疲労]]による硬直化が目立ち始める。またこの頃より昭和の前半までは国内が小氷河期に入り[[1822年]]([[文政]]5年)には[[隅田川]]が凍結している。
 
それに加えて、18世紀後半の[[産業革命]]によって[[欧米]]諸国は急速に[[近代化]]しており、それぞれの政治経済的事情から[[大航海時代]]の単なる「冒険」ではなく、自らの産業のために[[資源]]と[[市場]]を求めて世界各地に[[植民地]]獲得のための進出を始めた。[[極東]]地域、日本近海にも欧米の船が出没する回数が多くなった。例えば、明和8年(1771年)にペニュフスキー、泡・奄美大島に漂流、安永7年(1778年)ロシア船、蝦夷地厚岸に来航して松前藩に通商を求める、寛政4年(1792年)ロシア使節ラクスマン、伊勢の漂流民大黒屋光太夫等を護送して根室に来航し、通商を求めるが、幕府は日本との外交ルートを模索する外国使節や外国船の接触に対し、[[1825年]](文政8年)には[[異国船打払令]]を実行するなど、鎖国政策の継続を行った。文政2年(1819年)幕府は、浦賀奉行を2名に増員した。
[[ファイル:大塩平八郎終焉の地碑.JPG|240px|right|thumb|[[大塩平八郎]]終焉の地]]
==== 文化・文政期 ====
松平定信の辞任後<ref group="†">幕府の反対により典仁親王の尊号宣下を見合わせた事件、寛政4年(1792年)11月「尊号一件」で寛政5年(1793年)に辞職する</ref>、[[文化 (元号)|文化]]・[[文政]]時代から[[天保]]年間にかけての約50年間、政治の実権は11代将軍[[徳川家斉]]が握った。家斉は将軍職を子の[[徳川家慶|家慶]]に譲った後も実権を握り続けたので、この政治は「[[大御所 (江戸時代)|大御所]]政治」と呼ばれている。家斉の治世は、初め質素倹約の政策が引き継がれたが、貨幣悪鋳による[[出目]]の収益で幕府財政が一旦潤うと、[[大奥]]での華美な生活に流れ、幕政は放漫経営に陥った。上述の異国船打払令も家斉時代に発布されたものである。一方では、商人の経済活動が活発化し、都市を中心に庶民文化([[化政文化]])が栄えた。しかし、農村では貧富の差が拡大して各地で百姓一揆や村方騒動が頻発し、治安も悪化した。[[1805年]](文化2年)には[[関東取締出役]]が置かれた。水野忠邦はこれまでの世の中になかった変化の兆しを感じていた。各地の農民や町人による一揆、打ち毀し、強訴は例年起こっていた。文政6年(1823年)には摂津・河内・和泉1307か村による国訴は、綿の自由売り捌き、菜種の自由売り捌きを要求して、空前の規模の訴えとなり、これまでの経済の有り様を変えるものであった<ref>藤沢周平著 『藤沢周平全集 第17巻』 文藝春秋 1993年 420ページ</ref>。
 
==== 動乱の天保期 ====
{{関連記事|天保の大飢饉|天保の改革}}
[[ファイル:Mizuno Tadakuni.jpg|left|thumb|250px|[[水野忠邦]]]]
[[ファイル:大塩平八郎終焉の地碑.JPG|240px|right|thumb|[[大塩平八郎]]終焉の地]]
 
==== 天保期 ====
[[1832年]](天保3年)から始まった[[天保の大飢饉]]は全国に広がり、都市でも農村でも困窮した人々があふれ、餓死者も多く現れた。[[1837年]](天保8年)、幕府の無策に憤って[[大坂町奉行所]]の元与力[[大塩平八郎]]が大坂で武装蜂起した。大塩に従った農民も多く、地方にも飛び火して幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。このような危機に対応すべく、家斉死後の[[1841年]](天保12年)、老中[[水野忠邦]]が幕府権力の強化のために[[天保の改革]]と呼ばれる[[財政再建]]のための諸政策を実施したが<ref group="†">同年5月22日に、江戸市中に告げられた。市中の奢侈な風俗の取締、贅沢の禁止、質素倹約が強行された。</ref>、いずれも効果は薄く、特に[[上知令]]は幕府財政の安定と国防の充実との両方を狙う意欲的な政策であったが、社会各層からの猛反対を浴びて頓挫し、忠邦もわずか3年で失脚した<ref>しかし、1814年(天保15年)6月、忠邦、再び老中となった</ref>。幕府は、天保の改革に一環として幕領に対して'''御料所改革'''を打ち出している。この改革案は、代官に幕領の全耕地を再調査させ、年貢の増収を図ろうとするものであった。この改革案に対して、現地の実情を知る代官等にとっては迷惑な事であると受け取られた<ref>藤田覚 『泰平のしくみ-江戸の行政と社会』 岩波書店 2012年 202ページ</ref>。
 
[[ファイル:Haiguotuzhi.jpg|thumb|right|120px|『海国図志』]]
忠邦はまた、[[アヘン戦争]](1840年)における[[清]]の敗北により、1842年(天保13年)7月、従来の外国船に対する異国船打払令を改めて[[薪水給与令]]を発令して柔軟路線に転換する。同年6月には、英軍艦の来日計画が蘭より報告されている。
 
同月には[[江川英龍]]や[[高島秋帆]]に西洋流[[砲術]]を導入させて、近代軍備を整えさせた。
アヘン戦争の衝撃は、日本各地を駆け巡り、[[魏源]]の『[[海国図志]]』は多数印刷されて幕末の政局に強い影響を与えた<ref>[[源了圓]]は、「『海国図志』の日中韓の読み方の違い」において、後に洋務派と変法派を生みつつも刊行当時は正しく評価されなかった清国、『海国図志』への反応が鈍かった朝鮮、翻刻本23種(うち和訳本16種)が刊行され、国民一般に公開されて、きわめて関心が高かった日本を比較している。源(1999年)『地球日本史3』[[西尾幹二]]責任編集</ref>。
[[ファイル:Haiguotuzhi.jpg|thumb|right|120px|『海国図志』]]
 
中国は、アヘン戦争の敗北により、1843年(天保14年)には、広州・厦門・上海・寧波・福州の5港を開港し、翌1844年(天保15年)7月には清米修好通商協定([[望厦条約]])締結、10月には清仏通商協定([[黄埔条約]])を締結している。一方、米国は通商を拡大するため、日本・朝鮮との国交を樹立することを目的に使節を派遣することを決めた。1846年(弘化3年)閏5月27日、東インド艦隊司令長官ビッドルは2隻の軍艦を率いて江戸湾に入った。浦賀奉行の下役との交渉で日本政府(幕府)は貿易のため開港する用意がないことを確かめて6月7日に退去した。
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開国した後は日本のどの沿岸・海岸に外国船が来航するかも知れない事態となり、1853年(嘉永6年)8月から江戸湾のお台場建設を始めた。そして、同年9月15日、幕府は、大型船建造を許可することになった<ref group="†">8年後の1861年、幕府は庶民の大船建造・外国船購入を許可する</ref>。さらにオランダに軍艦・鉄砲・兵書などを注文した。
 
[[ファイル:Ii Naosuke 001.png|200px|right|thumb|[[井伊直弼]]]]
その後、さらに1858年(安政5年)4月、[[井伊直弼]]大老に就任する。米・蘭・露・英・仏の五カ国と修好通商条約と貿易章程、いわゆる[[安政五カ国条約]]([[不平等条約]])を締結し、日本の経済は大打撃を受けた。8月、外国奉行を設置する。同月孝明天皇条約締結に不満の勅諚(戊午の密勅)を水戸藩などに下す。また、幕府にも下す。この年7月13代家定没し、10月25日に14代家茂征夷大将軍・内大臣に任ぜられる。翌年6月から横浜・長崎・箱館の3港で露仏英蘭米5カ国との自由貿易が始まった。取引は、日本内地での活動が条約で禁止されていたため外国人が居住・営業を認められていた居留地で行われた。輸出の中心は生糸・茶であった<ref>第1位の生糸が輸出額の50~80%、第2位の茶が5~17%を占めていた</ref>。輸出の増大は国内の物資の不足を招き、価格を高騰させた。他方、機械性の大工業で生産された安価な欧米の綿織物や毛織物などが流入してきた。横浜港で輸出が94.5%、輸出が86.8%行われ、相手国では英が88.2%、仏が9.6%、ついで米、蘭への輸出であり、輸入では英が88.7%を占めついで蘭、仏、米、プロシア、露へであり、輸出入とも英との取引が主であった。また、国内の銀価格に対する金価格が欧米より低かったため、おびただしい量の金貨が海外へ流失した。こうして開港による経済的変動は下層の農民や都市民の没落に拍車をかけていった<ref>宮地正人監修、大日方純夫・山田朗・山田敬男・吉田裕著 『日本近現代史を読む』 新日本出版社 2010年 17ページ</ref>。
 
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==== 文久の国内政治 ====
[[ファイル:IiTokugawa NaosukeIemochi 001by Kawamura Kiyoo (Tokugawa Memorial Foundation).pngjpg|200px180px|rightleft|thumb|[[井伊直弼徳川家茂]]]]
一時は大老[[井伊直弼]]の強行弾圧路線([[安政の大獄]])もあり、不満「世論」も沈静化するかに思われたが、1860年(安政7年)3月3日の[[桜田門外の変]]後、将軍後継問題で幕府が揺れる間に事態は急速に変化する。
 
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このような情勢下、[[1866年]](慶応2年)1月21日、薩摩、長州ら政争を繰り返していた西国雄藩は[[坂本龍馬]]、[[中岡慎太郎]]の周旋により、西郷と桂との間で口頭の抗幕同盟が密約([[薩長同盟]])された。1866年(慶応2年)6月7日、幕府は[[第二次長州征伐]]を決行するが、高杉晋作の組織した[[奇兵隊]]などの士庶民混成軍の活躍に阻まれ、また、総指揮者である将軍[[徳川家茂]]が7月20日[[大坂城]]で病没するなどもあり、8月21日将軍死去のため征長停止の沙汰書が出され、9月2日幕長休戦を協定する。12月25日天皇が疱瘡のため36歳で没する。[[諡]](おくりな)を孝明天皇と定められた。
 
[[ファイル:Tokugawa yoshinobu.jpg|180px210px|leftright|thumb|[[徳川慶喜]]]]
折から幕法に反して京都に藩邸を置く諸大名を制御できず、京都の治安維持さえ独力でおぼつかない江戸幕府と、幕藩体制の根幹である「武士」の武力に対する信頼とその権威は、この敗北によって急速に無くなっていった。薩長は、[[土佐藩]]、[[佐賀藩|肥前藩]]をも巻き込み、開国以来の[[違勅]]条約に対する反対論と外国人排撃を主張、実行に移そうとする「攘夷」を、[[国学]]の進展などにより江戸時代後期から広がっていた国家元首問題としての[[尊王論]]とを結びつけ、「[[尊王攘夷]]」を旗頭に「倒幕」の世論を形成していった。
 
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一、金銀物価、よろしく外国と平均の法を設くべきこと。</ref><ref>藤沢周平著 『藤沢周平全集 第7巻』 文藝春秋 1993年 78ページ</ref>。
 
[[ファイル:Taisehokan.jpg|210px|left|thumb|「[[大政奉還]]図」 [[邨田丹陵]] 筆]]
同年8月、東海地方に伊勢神宮のお札が降ったことから喜んだ民衆は仮装して[[ええじゃないか]]と謳いながら乱舞した<ref group="†">金持ちの家に上がり込んで飲食したりするなどの行動を起こした。この行動については幕府への行動として行われていた一揆や打ち毀しなどの過激な行動が激減し、代わりに弱い「ええじゃないか」行動が行われたとする見解、また、世直し運動の変型とみる見解、討幕派の政治活動を隠蔽する役割を果たしたという見方もある</ref><ref>宮地正人監修、大日方純夫・山田朗・山田敬男・吉田裕著 『日本近現代史を読む』 新日本出版社 2010年 18ページ</ref>。これは、夏から秋にかけて、近畿・四国から関東に及ぶ広範囲な地域に波及した。このさなかの[[1867年]][[11月9日]](慶応3年10月14日)に、15代将軍[[徳川慶喜]]は起死回生の策として[[大政奉還]]を上奏し、15日、勅許の沙汰書を得る。そして24日、将軍職を辞した。{{要出典範囲|date=2013年10月|これは朝廷に対し恭順の意を表し、新しく成立するであろう新政府において重要な地位に立って、大名連合政権の上に立とうとする考えであった}}。武力によって完全に江戸幕府を倒そうとしていた倒幕勢力は攻撃の名目を一時的に失ったため、先手を取られた形となった。