「ウルグアイの歴史」の版間の差分

ノート:ウルグアイの歴史での問題提起した通り、初版立項時に誤って書いた記述(「労働人口の1/5が治安組織の要員」)を訂正します。申し訳ありませんでした。
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(ノート:ウルグアイの歴史での問題提起した通り、初版立項時に誤って書いた記述(「労働人口の1/5が治安組織の要員」)を訂正します。申し訳ありませんでした。)
 
== 軍事政権時代(1973年-1985年)==
[[フアン・マリーア・ボルダベリー]]大統領はトゥパマロスの弾圧を軍部に頼り、[[左翼]]勢力を壊滅に追いやったが、このことは副作用として軍部の発言力の増大をもたらした<ref name=sekaigendaishi34.392/>。[[1973年]]6月にはボルダベリーと結んだ軍部のクーデターにより軍部が政治の実権を握り<ref>[[#中川、松下、遅野井(1985)|中川、松下、遅野井(1985:393)]]</ref>、[[官僚主義的権威主義体制]]とみなしうる[[軍事政権]]が成立した<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:440)]]</ref>。軍部はボルタベリーに代わって直接政権を獲得することを望み、1976年にはボルタベリーは追放され、{{仮リンク|アパリシオ・メンデス|es|Aparicio Méndez}}が大統領に就任した。メンデス政権は[[新自由主義]]的な政策の下で経済を回復しようとし、経済政策はマクロ的には成功を収め、高度成長を達成したが、他方で国内の失業率は1977年の時点で11.8%にまで拡大した<ref name=sekaigendaishi34.394>[[#中川、松下、遅野井(1985)|中川、松下、遅野井(1985:394)]]</ref>。さらに、労働1982年の時点で人口296万人1ウルグアイで<ref>[[#中川、松下、遅野井(1985)|中川、松下、遅野井(1985:61)「便覧」]]</5ref>、[[ウルグアイの軍事|軍]]と警察を合わせて10万人が治安組織の要員、市民社会の中から10万人が密告者という異常な[[警察国家]]体制の下で密告が奨励され、左翼系、あるいは全く政治活動に関係のない市民への弾圧が進んだ<ref>[[#ガレアーノ/大久保訳(1986)|ガレアーノ/大久保訳(1986:24-30)]]</ref>。こうした軍事政権の弾圧を嫌い、国民の約17%に相当する約50万人の[[ウルグアイ人]]が国外に移住した<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:452)]]</ref>。
こうした軍事政権の弾圧を嫌い、国民の約17%に相当する約50万人の[[ウルグアイ人]]が国外に移住した<ref>[[#増田編(2000)|増田編(2000:452)]]</ref>。
 
1981年に軍部は軍の政治介入を合法化する憲法改正を実行しようとしたが、この体制は国民投票により否決された<ref name=sekaigendaishi34.394/>。このため1981年に大統領に就任した{{仮リンク|グレゴリオ・アルバーレス|es|Gregorio Álvarez}}将軍は1985年の民政移管を発表し、1984年にコロラド党、軍部、拡大戦線によって締結された「[[海軍クラブ合意]]」に基づいて、ウルグアイは再び民主化の道を軍部主導で歩むことになった<ref>[[#後藤(1993)|後藤(1993:165-166)]]</ref>。
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