「浮世絵」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
→‎中期: 注釈追加
54行目:
錦絵が誕生した明和2年(1765年)から文化3年(1806年)頃を指す。
 
明和2年(1765年)に江戸の俳人を中心に[[絵暦]]が流行し、絵暦交換会が開かれるようになった。その需要に伴い[[鈴木春信]]らが多色刷りによる'''東錦絵'''(吾妻錦絵)を編み出したことで、浮世絵文化は本格的開花期を迎えた。多色刷りが可能になった背景には、重ね刷りの際の目印となるよう「見当」が工夫されたこと、複数回の刷りに耐えられる丈夫で高品質な[[和紙|紙]]が普及したことが挙げられる<ref>曲亭馬琴「燕石雑誌」の記事
「明和二年の頃、唐サンの彩色摺にならひて、板木師金六といふもの板摺某にかたらひ、板木へ 見当を付くる事を工夫し、始めて四、五遍の彩色摺を製し出せしが、程なく所々に摺出すことになりぬと、金自らいへり。」
</ref>。[[越前和紙|越前奉書]]、[[伊予柾紙]]、[[西ノ内紙]]などの[[楮]]を原料とした紙が用いられた。また、経済の発展により[[下絵師]]、[[彫師]]、[[摺師]]と複雑な工程の分業体制を整えることができた点も重要である。
 
鈴木春信の死後、美人画は中性的・人形的な絵柄から写実的なものへと変化していった。