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== 概要 ==
[[平安時代]]に書かれた『[[皇太神宮儀式帳]]』<ref>伊勢神宮の維持・運営担当者が伊勢大神宮司で、その官吏としての前身は、「神」(かんだち)と呼ばれていた。それが孝徳天皇の時代に「御厨」(みくりや)と改められたという。神郡行政の拠点的施設を御厨と呼んだ。伊勢皇太神宮(内宮)の起源・組織・祭祀」などを記した書。[[延暦]]23年([[804年]])撰。永原慶二監修石上英一他編『岩波日本歴史辞典』岩波書店 1999年 同項から</ref>に「難波朝天下立評」という文言<ref>「難波朝廷(孝徳朝)が天下に評を立てられたとき、(この地域では)まず10郷を分け、度会の山田原に「屯倉を立て、新家連阿久多(にいのみのむらじあくた)と磯連牟良(いそのむらじむろ)をそれぞれ督領と助督とした。また残る10郷をもって、竹村に同じく「屯倉」を立て、麻続連広背(おえのむらじ ひろせ)を督領に、磯部真夜手(いそべの まやて)をじょとくにつけた。」という記事は度会・多岐両評の創設の事情を述べると同時に、孝徳朝における全国的な立評の実施を語っている。駒田利治「古代の伊勢・伊賀・志摩」 稲本紀昭・駒田利治・勝山清次・飯田良一・上野秀治・西川洋『三重県の歴史』山川出版社 2000年 42ページ</ref>があり、[[大化の改新]]直後の[[孝徳天皇]]の時代に「評」という制度が導入されたと記されており、発掘された[[金石文]]にも「評」を使っているものがあることから、こうした事実は古くから知られてはいた。
 
ところが、『[[日本書紀]]』には一貫して「[[郡]]」と表記されていた。これについて[[昭和]]26年([[1951年]])に[[井上光貞]]が大化改新で導入されたのは「評」だったという説を唱え、これに対して[[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]が日本書紀の記す「郡」こそが正式な名称で「評」は異字体に過ぎないとしてこれを否定した。この両者による論争は[[改新の詔]]の記事の信憑性や『日本書紀』編纂時の修飾説(原典史料の表現を編纂当時の表現に書き改めた部分があるという見解)などと絡んで長い間議論されてきた。
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* [[永昌 (唐)|永昌]]元年(689年)、[[那須]][[国造]]で評督に任ぜられた[[那須直葦提]]の事績を息子の[[意志麻呂]]らが顕彰するために碑を建て、[[国宝]][[那須国造碑]]として現存する。
* [[藤原京]](694~710年)から「上毛野国車評桃井里大贄鮎」と記された荷札として付けられた木簡が見つかっている<ref>松田猛・関口功一「国分寺のいらか 1 上野国の誕生」西垣晴次・山本隆志・丑木幸男編『群馬県の歴史』山川出版社 2003年11月 34ページ</ref>。
* 九州でも評制が施行された。「筑前国糟屋評」はのちの糟屋郡(かすやぐん、文武2年京都妙心寺鐘銘)、「衣評」は後の薩摩国娃郡(えいぐん、『続日本紀』文武4年六月庚辰条)か、「久須評」はのちの豊後国玖珠郡(くすぐん、大宰府政庁跡出土木簡)、「日向国久湯評」は後の児湯郡(こゆぐん、藤原京跡出土木簡)等の、後の郡と繋がる評名が知られる。「山部評」「豊評」(福岡市井尻B遺跡出土瓦)などの後の史料に現れない郡レベルの行政単位が記されたものも見つかっている。
* 評に関する最古の史料は法隆寺旧蔵金剛観音菩薩像の銘文である。その銘文中に、辛亥年(651年)笠評君大古のために造像した旨が記されている。
* 奈良県[[明日香村]]石神遺跡で平成14年(2002年)に第15次調査が行われた。7世紀後半の池状遺構や東西大溝から他の遺物とともに木簡も出土した。その木簡の中に、乙丑年(天智4年・665年)に国 - 評 - [[五十戸]](五十戸は「さと」と読み、「里」と同じ意味)の地方行政組織が全国に行き渡っていたことを示すものがあった。