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== 概要 ==
[[平安時代]]に書かれた『[[皇太神宮儀式帳]]』<ref>伊勢神宮の維持・運営担当者が伊勢大神宮司で、その官吏としての前身は、「神
ところが、『[[日本書紀]]』には一貫して「[[郡]]」と表記されていた。これについて[[昭和]]26年([[1951年]])に[[井上光貞]]が大化改新で導入されたのは「評」だったという説を唱え、これに対して[[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]が日本書紀の記す「郡」こそが正式な名称で「評」は異字体に過ぎないとしてこれを否定した。この両者による論争は[[改新の詔]]の記事の信憑性や『日本書紀』編纂時の修飾説(原典史料の表現を編纂当時の表現に書き改めた部分があるという見解)などと絡んで長い間議論されてきた。
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* [[永昌 (唐)|永昌]]元年(689年)、[[那須]][[国造]]で評督に任ぜられた[[那須直葦提]]の事績を息子の[[意志麻呂]]らが顕彰するために碑を建て、[[国宝]][[那須国造碑]]として現存する。
* [[藤原京]](694~710年)から「上毛野国車評桃井里大贄鮎」と記された荷札として付けられた木簡が見つかっている<ref>松田猛・関口功一「国分寺のいらか 1 上野国の誕生」西垣晴次・山本隆志・丑木幸男編『群馬県の歴史』山川出版社 2003年11月 34ページ</ref>。
* 九州でも評制が施行された。「筑前国糟屋評」はのちの糟屋郡(かすやぐん、文武2年京都妙心寺鐘銘)、「衣評」は後の薩摩国
* 評に関する最古の史料は法隆寺旧蔵金剛観音菩薩像の銘文である。その銘文中に、辛亥年(651年)笠評君大古のために造像した旨が記されている。
* 奈良県[[明日香村]]石神遺跡で平成14年(2002年)に第15次調査が行われた。7世紀後半の池状遺構や東西大溝から他の遺物とともに木簡も出土した。その木簡の中に、乙丑年(天智4年・665年)に国 - 評 - [[五十戸]](五十戸は「さと」と読み、「里」と同じ意味)の地方行政組織が全国に行き渡っていたことを示すものがあった。
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