「関ヶ原の戦い」の版間の差分

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これら白峰説に対して本多隆成は<ref>{{Cite journal|和書|author=本多隆成|title=小山評定の再検討|journal=織豊期研究|issue=14号|year=2012}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=本多隆成|title=「小山評定」再論 : 白峰旬氏のご批判に応える|journal=織豊期研究|issue=17|year=2015}}</ref>、家康が直接の主従関係に無い諸大名に一方的に命令を下したとは考え難く、諸大名の合意と納得を得るために小山評定が開かれたとする等の反論を行っている。また「内府ちがひの条々」の内容や三奉行の加担もいずれは東軍諸大名に伝わるものであり偽装工作は無意味とする。
笠谷和比古は7月25日の時点では「内府ちがひの条々」は家康や東軍諸大名の許には届いておらず、未だ三成と吉継の謀反という現状認識しかない諸大名が家康に従うのは当然であったとし、むしろ一豊による居城明け渡しの献策が三奉行加担判明後の東軍分裂を防いだと評価する<ref>[[#kasaya2007|笠谷 2007]]、p44-47</ref>。また東海道の諸大名の居城明け渡しと徳川譜代武将の入城という大規模な行動を評議なく行うことは不可能とする<ref>{{Citation|和書|editor=笠谷和比古|title=徳川家康 ─その政治と文化・芸能─|publisher=宮帯出版社|year=2016|pages=53-54}}</ref>。水野伍貴は、上方からの情報によって、家康は7月23日頃に毛利輝元の西軍関与を確信しており、その事態に対処するため東軍諸大名と合議する必要があったとする。そして[[宮部長房|宮部長煕]]が寛永10年(1633年)に記した身上書にある、小山評定に関する記述などを根拠に虚構説を否定している(一方、水野は白峰説について、定着には至っていないものの、歴史的事実とされてきた小山評定に、検証が加えられる転機になったとも評している)<ref>{{Cite journal|和書|author=水野伍貴|title=小山評定の歴史的意義|journal=地方史研究|volume=67|issue=2|year=2017}}</ref>。ただしこれら評定肯定説は主に当時の政治的状況や経緯から、実施の妥当性を主張するものであって「小山評定」を一次史料によって直接立証したものではなく、また二次史料に記された「小山評定」の内容を無条件に肯定するものでもない。
 
===島津義弘の夜襲策について===