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[[File:王鳴盛.jpg|thumb|王鳴盛]]
'''王 鳴盛'''(おう めいせい、[[1720年]]
幼少の頃から、[[経学]]を[[恵棟]]から、詩文を[[沈徳潜]]から学び、17歳で[[生員]]になり、[[1747年]]([[乾隆]]12年)に[[郷試]]に合格、[[1754年]](乾隆19年)に[[進士]]及第<ref>殿試第一甲二名。</ref>した。官は、内閣学士
▲== 経歴 ==
▲幼少の頃から、[[経学]]を[[恵棟]]から、詩文を[[沈徳潜]]から学び、17歳で[[生員]]になり、[[1747年]]([[乾隆]]12年)に[[郷試]]に合格、[[1754年]](乾隆19年)に[[進士]]及第<ref>殿試第一甲二名。</ref>した。官は、内閣学士、兼礼部侍郎にまで進んだが、失脚して光禄寺卿に落とされ、偶々母の死にあって官を辞して帰郷して[[蘇州市|蘇州]]で[[処士]]として後半生を過ごした。その一方で金銭への執着心が強く、官僚時代に民衆から多くの搾取を行ったと非難され、[[昭槤]]は「王西荘之貪」(『嘯亭続録』巻3所収)という一文を書いて批判したほどであった<ref>吉田「王鳴盛」『歴史学事典』</ref>。
学問的には、樸学(漢学)を志し、経学においては、[[鄭玄]]を理想とした。また、中国の伝統的な[[図書分類法]]である[[四部分類]]の各分野全てで著書を残そうと志してそれを実現<ref>経部→『尚書後案』、史部→『十七史商榷』、子部→『蛾術篇』、雑部→『耕養斎文集』とされている。</ref>させた。史学では、経学の手法を応用して、[[正史]]の異同を精査し、また小説・野史・金石文までも当たって考証を重ねた。
== 主要な著作 ==
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== 伝記資料 ==
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== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 吉田純「王鳴盛」『歴史学事典 5 <
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