「二階堂トクヨ」の版間の差分

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== 経歴 ==
=== 体操嫌いの文学少女(1880-1904) ===
[[1880年]](明治13年)[[12月5日]]に[[宮城県]][[志田郡]]桑折村(現・大崎市三本木桑折)にて父・保治、母・キンの長女として生まれる<ref name="jwcpe"/>{{sfn|西村|1983|pp=7-9}}。三本木は豊かな自然に囲まれた山あいの里であり、トクヨはどんな花の名所よりも美しいと讃える歌を残している{{sfn|西村|1983|p=13}}。[[1887年]](明治20年)、父の赴任地・[[松山町 (宮城県)|松山]]の松山尋常高等小学校(現・大崎市立松山小学校)に入学するが、間もなく父の転勤により三本木尋常高等小学校(現・大崎市立三本木小学校)に転校する{{sfn|西村|1983|p=13}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=14}}。三本木小では[[尋常科]]4年・[[高等科]]4年の計8年間学び、成績は普通であったが、「女子には高度な[[学問]]は不要」と考える当時の風潮{{#tag:ref|三本木小高等科の同級生は7、8人しかおらず、女子児童はトクヨだけであった{{sfn|西村|1983|p=14}}。|group="注"}}からすると、高等科をきっちりと卒業させた二階堂家は教育熱心であったことが窺える{{sfn|西村|1983|p=13}}。高等科4年生([[1894年]]=明治27年)の[[夏休み]]に叔父の佐藤文之進([[仙台市立立町小学校]]教師)から『[[日本外史]]』を習ったことで学問に目覚め{{sfn|西村|1983|pp=14-15}}、文学少女に成長した<ref name="jwcpe"/>。なお、小学校時代の8年間、トクヨは[[体操]]([[体育]])の授業を受けたことがなかった{{sfn|西村|1983|p=37}}。
 
[[1895年]](明治28年)に三本木小高等科を卒業し、予備講習会{{#tag:ref|郡の視学が教師となって開いていた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=18}}。講習会からの帰り道は暗くなったので、用心のためトクヨは小刀を懐に忍ばせ、途中まで弟の清寿が迎えに行っていた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=18-19}}。|group="注"}}を経て、同年[[11月10日]]に[[尋常小学校]]本科准教員の免許を取得する{{sfn|西村|1983|pp=15-16}}。地元の三本木小学校に就職し、坂本分教場で准教員となった{{sfn|西村|1983|p=16}}。坂本分教場では老教師が教えていたため、「[[鬼ごっこ]]をしましょう」と誘う15歳の「二階堂先生」の出現に児童は驚いた{{sfn|西村|1983|p=16}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=19}}。月給は1円50銭と新米教師の相場と同等で、初任給を神棚に祀った{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=19}}。分教場での教師生活を続けるうちに更に上級学校へ行って学問を身に付けたいという思いが募ったが、[[宮城師範学校|宮城県尋常師範学校]](宮城師範、現・[[宮城教育大学]])は女子部を廃止しており、トクヨは進学ができなかった{{sfn|西村|1983|pp=16-19}}。しかしトクヨは諦めず、全く縁のない[[福島民報]]に手紙を送って[[福島師範学校|福島県尋常師範学校]](福島師範、現・[[福島大学]]人文社会学群)への入学の斡旋を依頼した{{sfn|西村|1983|pp=19-20}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=20-21}}。福島師範には[[福島県]]民でないと入学できなかったことから、[[戸籍]]上[[養子縁組]]すれば面倒を見るという返事を受け取ったトクヨは、これを受諾して[[1896年]](明治29年)3月に福島民報の[[社長]]・[[小笠原貞信 (政治家)|小笠原貞信]]の養女となり、小笠原トクヨを名乗った{{sfn|西村|1983|pp=20-21}}。こうして同年4月に福島師範へ入学、[[1899年]](明治32年)3月に[[高等小学校]]本科正教員の資格を得て卒業{{#tag:ref|在学中に校名変更があり、卒業時の校名は福島県師範学校であった{{sfn|西村|1983|p=22}}。|group="注"}}した{{sfn|西村|1983|p=22}}。卒業後成績優秀で[[福島大学附属小学校|附属小学校]]赴任地は[[訓導]]に就くことを求められるも固辞し{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=27}}、[[安達郡]][[油井村]]の油井尋常高等小学校(現・[[二本松市立油井小学校]])に赴任しトクヨは[[訓導]]として尋常科2年生の[[学級担任|担任]]になった{{sfn|西村|1983|pp=23-24}}。担任クラスには長沼ミツという児童がおり、その姉で高等科3年生の智恵子とも親しくなった{{sfn|西村|1983|p=24}}。智恵子とは、後に[[高村光太郎]]の妻になる[[高村智恵子]]のことであり、智恵子はトクヨに懐いていた{{sfn|西村|1983|p=24}}。
 
1900年(明治33年)4月、油井小を休職し、[[東京女子高等師範学校|女子高等師範学校]](女高師、現・[[お茶の水女子大学]])文科に入学する{{sfn|西村|1983|p=27}}。当時の女高師は[[高嶺秀夫]]が校長を務め、[[和歌]]の[[尾上柴舟]]、体操の[[坪井玄道]]をはじめ、[[安井てつ]]{{#tag:ref|安井は[[クリスチャン]]であり、トクヨは安井の下で[[聖書]]の勉強をし、『[[ヨブ記]]』を英語で読みこなすことができた{{sfn|穴水|2001|p=50}}。この経験が金沢での宣教師との接触につながり、体操教師トクヨの誕生に至るのであった{{sfn|穴水|2001|pp=49-51}}。|group="注"}}・[[後閑菊野]]らの授業を受けた{{sfn|西村|1983|p=29}}。トクヨは特に尾上柴舟の授業に魅了され、自作の歌を褒められて「小柴舟」の名をもらうほどであった{{sfn|西村|1983|pp=29-30}}。一方で体操の授業には全く関心がなく、欠課や見学など何とか授業に出ないようにしていた{{sfn|西村|1983|p=30}}。
 
女高師時代のトクヨは毎年学年末に不運に見舞われるという[[ジンクス]]があった{{sfn|西村|1983|p=30}}。1年生の時は足裏の怪我が原因で骨が腐って40日の闘病生活を送り、2年生は[[チフス]]に感染して4か月間[[茅ヶ崎市|茅ヶ崎]]の病院に入院、2年生は足裏の怪我が原因で骨が腐って40日の闘病生活を送り、3年生は養父・小笠原貞信が死去、4年生は実父・保治が死去した{{sfn|西村|1983|pp=31-35}}。このうち1・2・4年生の時には[[定期考査|学年末試験]]を受けることができなかった{{sfn|西村|1983|p=35}}。本来、試験を受けなければ進級できないが、トクヨは成績が良かったからか、試験免除で進級している{{sfn|西村|1983|p=35}}。特に4年生の試験は卒業がかかったものであり、トクヨは留年覚悟であったが、学校は試験を免除し卒業を認めた{{sfn|西村|1983|p=35}}。こうして1904年(明治37年)3月、[[教育学|教育]]・[[倫理 (科目)|倫理]]・体操・[[国語 (教科)|国語]]・[[地理 (科目)|地理]]・[[歴史教育|歴史]]・[[漢文学|漢文]]の7科目の師範学校女子部・高等女学校の教員免許を取得して女高師をストレートで卒業した{{sfn|西村|1983|p=36}}。
 
=== 体操教師への覚醒(1904-1912) ===
女高師の卒業後は[[教師]]となり、最初の赴任先は石川県立高等女学校(石川高女、現・[[石川県立金沢二水高等学校]])であった{{sfn|西村|1983|p=36}}。赴任前に「主として体操科を受け持ってほしい」という私信を受け取っていたが、トクヨは何かの間違いだろうと思い、最初の校長{{#tag:ref|当時の校長は[[体操伝習所]]の卒業生である土師雙他郎(はじ そうたろう、1853 - 1938)であった{{sfn|穴水|2001|p=41, 43}}。土師は体育を重視しており、トクヨの赴任前年に体操科の中心を担った高桑たまが病死したため、トクヨに高桑と同様の役回りを期待していた{{sfn|穴水|2001|pp=44-45}}。|group="注"}}からの言葉でそれが事実だと知ると絶句した{{sfn|西村|1983|pp=36-38}}。本業の国語の教師は十分いる一方、体操の免許を持った教師は不足していたから{{#tag:ref|実際には国語の担当教師は2人しかおらず、土師校長がトクヨを納得させるために使った方便であったと考えられる{{sfn|穴水|2001|p=46}}。|group="注"}}であった{{sfn|西村|1983|p=36}}。体操のことを「義理にもおもしろいとは云えぬ代物」、「怒鳴られて馬鹿馬鹿しい」、「およそ之れ程下らないものは天下にあるまい」と酷評していたトクヨにとって体操教師を命じられたことは不本意であるばかりでなく、大恥辱である、世間に対して面目を失う{{#tag:ref|トクヨが特別体操を卑下していたというわけでなく、当時の日本社会が体操教師を軽視する傾向があった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=49}}。|group="注"}}、とまで思っていた{{sfn|西村|1983|pp=39-40}}。しかし、女高師の卒業生は5年間任地で教職を全うする義務を負っていたこと、女高師時代のジンクスから翌[[1905年]](明治38年)の春に自分は死ぬのだろうと思っていたことで、決死の覚悟で体操を教えることにした{{sfn|西村|1983|p=40}}。最初は週13時間の授業に身も心も疲弊したが、数か月すると自身の体調が良くなっている{{#tag:ref|この文章の元になっているのは、イギリス留学から帰国した後のトクヨが自身の転換点として言及したものである{{sfn|穴水|2001|p=15}}。文学好きのトクヨは悲劇のヒロインに自己同化する傾向があり、誇張された表現とみるべきである{{sfn|穴水|2001|pp=15-16}}。周囲の人からは金沢で初めて洋装した、純白の体操着を身に付けた颯爽とした印象の人だと見られており、身も心も病んでいるようには見えていなかった{{sfn|穴水|2001|p=16}}。|group="注"}}ことを発見し、夏には[[井口阿くり]]{{#tag:ref|井口は1903年(明治36年)に女高師教授に着任したので、トクヨが4年生の時と重なっているが、井口は国語体操専修科を主に担当したため、文科のトクヨと接点はなかった{{sfn|西村|1983|p=38}}。|group="注"}}が講師を務める3週間の体操講習会を受講し、スウェーデン体操を学んだ{{sfn|西村|1983|pp=41-42}}。
 
井口の講習を受けたトクヨは素人では到底教えられないと痛感し、体操を学びたいと思うようになった{{sfn|西村|1983|p=42}}。幸運にも、体操専門学校を卒業した[[カナダ人]][[宣教師]]のミス・モルガンが[[金沢市]]に[[キリスト教]]を布教しに来ていたため、トクヨは1日おきに30分の個人レッスンをモルガンの家の庭で受け始めた{{sfn|西村|1983|pp=42-43}}。モルガンの教える体操は、スウェーデン体操にドイツ体操を混合した独自のもので、指導のうまさと相まって、トクヨはどんどん体操にのめり込んでいった{{sfn|西村|1983|pp=43-44}}。ついには石川県立学校の全生徒を対象に週28時間もの体操の授業を受け持つ{{#tag:ref|本業の[[国語]]でも50人の作文指導を行っている{{sfn|西村|1983|p=45}}。|group="注"}}に至り、[[石川県]]の郡部を回って小学校教師向けに体操の実地指導を行うようになった{{sfn|西村|1983|pp=44-45}}。この頃の教え子に時の[[石川県知事]]・[[村上義雄]]の娘がおり、父娘ともどもトクヨの体操に魅了され、知事の後ろ盾を得て[[運動会]]ではプロの[[楽隊]]を入れて体操を行うという企画を行ったり、生徒を男役と女役に分けて[[カドリーユ]]を踊らせたりした{{sfn|西村|1983|p=47}}。この運動会では、入場券を得られなかった[[第四高等学校 (旧制)|第四高等学校]](現・[[金沢大学]])の学生が塀を乗り越えて乱入し、[[警察官]]が監視に当たるほどの大変な評判を呼んだ{{sfn|西村|1983|p=47}}。
 
[[1907年]](明治40年)7月、トクヨは[[高知師範学校|高知県師範学校]](高知師範、現・[[高知大学]]教育学部)への出向を命じられた{{sfn|西村|1983|p=50}}。しかし[[高知市]]に来てすぐに[[マラリア]]に感染し、入院を余儀なくされた{{sfn|西村|1983|p=50}}。教諭兼舎監{{#tag:ref|舎監として、夜中に高知師範女子[[寄宿舎]]に侵入した[[泥棒]]を[[薙刀]]で追い払った{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=54}}。トクヨに[[武士]]の血が流れていることを示すエピソードである{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=54}}。|group="注"}}に着任し、歴史1時間、体操18時間{{#tag:ref|本格的に体操教師になったトクヨに弟の清寿は「物好きにもほどがある」と自分の思いを伝えたが、トクヨは全く意に介さなかった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=49}}。|group="注"}}を受け持った{{sfn|西村|1983|p=50}}。体操の授業中、生徒を木陰で休ませている時に、[[ウィリアム・シェイクスピア]]の[[戯曲]]を語り、生徒を喜ばせた、という逸話が残っている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=65}}。[[高知県]]でもトクヨは体操講習会を開き、その模様は土陽新聞(現・[[高知新聞]])に取り上げられた{{sfn|西村|1983|pp=51-52}}。この頃トクヨは、自身がスウェーデン体操を教えているつもりであったが、実際には金沢では[[第9師団 (日本軍)|第9師団]]、高知では[[歩兵第44連隊]]で行われていた軍隊式訓練を見よう見まねで教えていたのであった{{sfn|西村|1983|pp=52-53}}。軍人からは「女軍の一隊だ」などと言われたことに当時のトクヨは得意げだったが、後に振り返って「之れ等を思へば総べて漸死の種なり」と綴っている{{sfn|西村|1983|pp=52-53}}。[[1909年]](明治42年)[[7月31日]]、トクヨは二階堂姓に戻った{{sfn|西村|1983|p=21}}。[[1910年]](明治43年)末、トクヨは母校の東京女子高等師範学校{{#tag:ref|女子高等師範学校から改称していた。|group="注"}}(東京女高師)の体操科研究生になることを願い出た{{sfn|西村|1983|p=53}}。この願い出は後に取り下げるが、次には宮城師範への転任の話が舞い込み、更に母校・東京女高師からは助手就任の勧めが来て、また別の学校からも就任依頼が届いた{{sfn|西村|1983|pp=53-54}}。トクヨはこの中から東京女高師の職を選び、高知師範を辞して{{sfn|西村|1983|p=54}}[[1911年]](明治44年)春に東京女高師[[助教授]]に着任した{{sfn|穴水|2001|p=16}}。トクヨはこの時30歳で、異例の抜擢となった{{sfn|穴水|2001|p=16}}{{sfn|西村|1983|p=2}}。
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[[1913年]](大正13年)[[1月15日]]、{{仮リンク|ロイヤルアルバートドック|en|Royal Albert Dock}}に入港しイギリスに到着するも、予定より1日早く着いたため迎えの人が来ておらず、船中でもう一夜を明かした{{sfn|西村|1983|pp=4-5}}。翌1月16日、迎えは来たものの、その人は留学先のキングスフィールド体操専門学校(現・{{仮リンク|グリニッジ大学|en|University of Greenwich}})の場所を知らず、雨の降る中ようやく夕方に学校に到着し、入学手続きを行った{{sfn|西村|1983|p=5}}。学校側は「[[アシスタント・プロフェッサー]]が留学してくる」と聞いて身構えたが、いざトクヨに試験を課すと何も知らないことが判明し、トクヨは「一体まあ、何をあなたは教えていました?」と教師一同から問われてしまった{{sfn|西村|1983|pp=83-85}}。そんな中で唯一、「家庭競技」だけは「興味ある室内ゲームだ」と高評価を得た{{sfn|西村|1983|p=85}}。
 
キングスフィールド体操専門学校の授業は理論と実科に分かれ、理論では[[生理学]]・[[解剖学]]・[[衛生学]]など、実科では教育体操・医療体操・[[舞踊]]・[[競技]]などを学び、理論と実科にまたがる「教授法」の科目もあった{{sfn|西村|1983|p=89}}。最初は何も知らないと驚いていた教師陣も、日々急速に成長していくトクヨに「天才だ」と賛辞を贈るようになった{{sfn|西村|1983|pp=92-93}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=65}}。トクヨが最も影響を受けたのは、校長の[[マルチナ・バーグマン=オスターバーグ]]であった{{sfn|穴水|2001|pp=17-18}}。学校の長期休暇中は、[[ロンドン]]市内の女子体操学校を参観し、[[チェシャー|チェシャー州]]{{仮リンク|オルトリンガム|en|Altrincham}}の[[夏季学校]]での[[水泳]]練習、ロンドンの舞踊塾での[[ダンス]]練習に励んだ{{sfn|西村|1983|pp=94-98}}。特に水泳は苦手で最も苦しんだが、1か月後には一通りの型を習得し{{#tag:ref|水に入っているのは1日1回30分までという規則を破って3時間練習したり、1日2回入水したりして猛練習した成果である{{sfn|西村|1983|p=95}}。これを知った教師は「そんな無理をするなら証明書はやらない」と激怒したが、限られた時間内で水泳の実力を付けたかったトクヨにとって証明書の取得は重要なことではなく、ついに教師側が折れてトクヨは猛練習を認められた{{sfn|西村|1983|p=95}}。|group="注"}}学年1位の成績を得た{{sfn|西村|1983|p=95}}。
 
キングスフィールド体操専門学校で1年3か月学んだ{{#tag:ref|キングスフィールド体操専門学校は、トクヨの2年間のイギリス留学を同校で2年学ぶものと誤解していたため、学校を去る時にひと悶着あった{{sfn|西村|1983|p=98}}。同校は2年制の学校であり、オスターバーグ校長はトクヨを学校に留めおきたかったのであった{{sfn|西村|1983|p=98}}。|group="注"}}後、トクヨはイギリス国内の体操専門学校を渡り歩いた{{sfn|西村|1983|pp=103-104}}。当初の留学予定では、イギリス巡歴の後、[[ヨーロッパ]]各国を巡ってスウェーデンで半年学び、帰路[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に立ち寄ることになっていた{{sfn|西村|1983|p=103}}。しかしこの頃、[[第一次世界大戦]]が勃発し、イギリスでも[[ドイツ軍]]による[[空爆]]が行われるような緊張状態であったため、トクヨは各国巡回を諦めイギリスにとどまることにした{{sfn|西村|1983|p=104}}。ところが日本から急きょ帰国せよとの[[電報]]が届いたため、やむなく[[1915年]](大正4年)[[3月14日]]にイギリスを発ち{{sfn|西村|1983|p=104}}、ドイツ軍の[[潜水艦]]攻撃に怯えながら行きと同じ[[航路]]を取って{{sfn|穴水|2001|p=17}}、[[4月4日]]に日本へ戻った{{sfn|西村|1983|p=104}}。
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塾の評判から、2期生は30人定員だったにもかかわらず、[[1923年]](大正12年)6月時点で72人が在籍していた{{sfn|西村|1983|pp=217-218}}。同年[[9月1日]]に関東大震災が発生し、塾舎が半倒壊し使用困難になる被害を受けたが、トクヨと塾生80人は全員無事{{#tag:ref|塾で教鞭を執っていた弟の真寿が駆けつけたところ、[[余震]]の不安から代々木練兵場に避難していた{{sfn|西村|1983|p=219}}。東京女高師の教え子2人が心配して訪ねて来て、「無事でよかった」と抱き合って泣いた、という一幕もあった{{sfn|西村|1983|pp=219-220}}。|group="注"}}であった{{sfn|西村|1983|p=217, 219}}。塾は1か月休止し生徒を実家に帰したが、その後塾再建のため、塾生が体操やダンスをしている写真を売り歩き資金調達を図った{{sfn|西村|1983|p=220}}。トクヨは[[荏原郡]][[松沢村 (東京府)|松沢村]]松原(現・[[世田谷区]][[松原 (世田谷区)|松原二丁目]]、[[日本女子体育大学附属二階堂高等学校]]の位置)に移転を決め、[[1924年]](大正13年)[[1月25日]]に[[バラック]]の塾舎へ移転した{{sfn|西村|1983|p=220}}。当日は代々木から松原まで約6 [[キロメートル|km]]の道のりを塾生が[[机]]や[[椅子]]を抱えて行進した{{sfn|西村|1983|p=220}}。
 
3期生には1928年の[[1928年アムステルダムオリンピック|アムステルダムオリンピック]]に日本女子選手として初出場し、陸上[[800メートル競走|800m走]]で同じく日本女子史上初となる[[銀メダル]]を獲得した[[人見絹枝]]が入学した<ref name="ks1903"/>{{sfn|勝場・村山|2013|pp=21-56}}。塾創設時のトクヨは[[アスリート]]を育成する気は毛頭なく、塾生がスポーツ[[エリート]]意識を持つことを嫌い、特定の種目に特化した生徒に特別な配慮をすることもなかった{{sfn|勝場・村山|2013|p=23}}。[[テニス]]の腕を磨きたかった人見は退塾したいと思うこともあったが、夏休みに帰省した際に教師絹枝なることを家族に期待され出会っいると感じて考え直し、トクヨ女子体育方も[[岡山県]]から人見発展[[陸上競技]]大会への出場要請が来たことで、トップアスリート養成が女子体育不可欠と発展に必要であると認識を改める契機となに至った{{sfn|勝場・村山|2013|pp=2423-25}}。1925年(大正14年)4月、東京女子大学に復帰し体操科の担任を務め、東京女子医学専門学校(現・[[東京女子医科大学]])でも週1回教え始めた{{sfn|西村|1983|pp=224-225}}。両校での勤務についてトクヨ本人は「御主に仕ヘて忠義をして見たい」と語っているが、二階堂体操塾の[[旧制専門学校|専門学校]]昇格を目指してのための学習・準備を兼ねていた可能性がある{{sfn|西村|1983|pp=224-225}}。
 
=== 専門学校昇格と晩年(1926-1941) ===
[[1926年]](大正15年)[[3月24日]]{{sfn|西村|1983|p=226}}、日本女子体育専門学校(体専)に昇格・改称した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。私立の女子専門学校としては日本で20校目であり、初の女子体育専門学校であった{{sfn|西村|1983|p=227, 230}}。ところが定員を150人に増やしたところ、開校初年は約130人、2年目は約70人と[[定員割れ]]してしまった{{sfn|西村|1983|p=229}}。その理由を資格が取れないからだと考え、[[1928年]](昭和3年)[[6月4日]]、体専は中等教員無試験検定資格を取得し、学生は卒業と同時に体操科の中等教員免許が取得できるようになった{{sfn|西村|1983|p=229}}。この頃のトクヨは忙しさのあまり居留守を使ったり、黒髪を切り[[スキンヘッド|丸坊主]]になったりした{{#tag:ref|[[1930年]](昭和5年)から[[1931年]](昭和6年)頃から坊主頭だったという{{sfn|西村|1983|p=246}}。そこでトクヨは「桜菊[[尼]]」と自称するようになった{{sfn|西村|1983|p=222}}。|group="注"}}エピソードが関係者の間で知られている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。来客時には[[かつら (装身具)|かつら]]を着用したが、慌ててかぶるため、[[眉毛]]の近くまでかかっている時から大きく後退している時まであった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=124}}。また震災の被害や学校移転で資金繰りに窮し、学生からも借金をする羽目になった{{sfn|西村|1983|pp=227-228}}。文部省が審査のために来校した時には、[[慶応義塾大学]]や東京女子体操音楽学校(現・[[東京女子体育短期大学]])から図書や備品を借りて審査をやり過ごした{{sfn|西村|1983|p=228}}。
 
体専時代のトクヨの学校経営は、思いの強さから「専制的」と見られ、トクヨと相いれず学校を去った教師も少なくなかった{{sfn|西村|1983|p=247}}。11年ほど体専で講師を務めた今村嘉雄も不満を抱いていた1人であったが、表立ってトクヨに反発するのは1人の理事しかいなかったと語り、晩年のトクヨを「よい軍国婆さん」と表現した{{sfn|西村|1983|pp=247-248}}。社会が[[戦争]]へと向かっていったことと戦前の体育が軍と深い関係があったこともあり、トクヨは青年[[将校]]を愛し、将校の側もそれを分かっていて[[軍事演習]]の帰りに兵隊を連れてたびたび来校した{{sfn|西村|1983|pp=247-248}}。その際には授業を中断して湯茶で接待したり、軍人に見せるために学生にダンスさせたりしていたという{{sfn|西村|1983|p=247}}。トクヨの日々の発言や雑誌『ちから』の記事も[[国家主義]]・[[国粋主義]]的な色味を帯びていき、「日本のほこり」のために女子スポーツ選手を輩出しようと考えるようになっていった{{sfn|西村|1983|pp=248-251}}。
 
[[1941年]](昭和16年)[[4月7日]]、体専の[[入学式]]の朝に倒れ、東京海軍共済組合病院(現・[[東京共済病院]])に入院、後に本人の希望で[[慶應義塾大学病院]]に転院した{{sfn|西村|1983|p=252}}。病名は[[胃癌|胃ガン]]で、ほかに[[糖尿病]]や[[白内障]]などの持病があった{{sfn|西村|1983|p=252}}。4月14日にはトクヨの妹・とみの娘である美喜子を[[養子縁組|養女]]にとった{{sfn|西村|1983|p=10}}。入院中、体専の生徒や卒業生は看病や見舞い、[[輸血]]を申し出たが、一切断っている{{sfn|西村|1983|p=253}}{{#tag:ref|週1回、[[放射線治療]]のために病室から移動する際に運搬車を押す際に補助することは例外的に認められた{{sfn|西村|1983|pp=252-253}}。[[看護師]]の制止を振り切って卒業生が病室に入って来た際には「二階堂を見舞う暇があったら自分の職務を立派に果たして来なさい!」と叫んだが、布団をかぶってすすり泣いたという{{sfn|西村|1983|p=253}}。|group="注"}}。同年7月17日午前1時40分に死去、60歳であった{{sfn|西村|1983|p=254, 262}}。当日は稀に見るような暑さであったという{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=67}}。生涯[[独身]]であった{{sfn|西村|1983|p=247}}。
 
「ゆかり」と題した手帳には、次の言葉が互いに何の脈絡もなく並んでおり、死の間際のトクヨの心境を映し出している{{sfn|西村|1983|pp=253-254}}。( / は改行)
 
{{Cquote|馬鹿を見るな / 愚痴をこぼすな / 時は解決 / 勝て!! / 償へ / 大摂理に安んぜよ / 自適楽天 / 大御手の身がはり / 時は勝利 / 大慈悲の手 / 報償、深慮、自適、浄土 / 外に無し ただ羽根布団わが一生}}
 
=== 死後 ===
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== 人物 ==
生徒や卒業生にものをあげることが好きで、手当たり次第にものをあげ、その時は相手に要・不要を言わせなかった{{sfn|西村|1983|p=178246}}。喜んで受け取れば非常に満足し、断れば叱りつけた{{sfn|西村|1983|p=178246}}。他人の幸福は自分の幸福と考える人であり、口癖のように「○○さん、ご幸福ですか?」と問うていたという{{sfn|西村|1983|p=178246}}。
 
金沢で初めて洋服を着た人であると言われている{{sfn|穴水|2001|p=16}}。当時のトクヨは颯爽とした印象の人だった{{sfn|穴水|2001|p=16}}が、体専の校長になった頃には服装へのこだわりはなくなり「ぞろっとした[[着物]]」を着ていたと学生が証言している{{sfn|西村|1983|p=246}}。かつらは3つくらい持っていた{{sfn|西村|1983|p=246}}。
 
=== 美声と怒号 ===
トクヨは美声の持ち主だったといい{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=25}}、よく通る声であった{{sfn|西村|1983|p=46}}。代々木練兵場の軍人は「トクヨの号令は日本一」と讃えた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=25}}。歌人として「伊豆能舍馨聲子」{{#tag:ref|馨聲(けいせい)とは「香るような声」という意味であろうと弟が語っている{{sfn|穴水|2001|p=31}}。伊豆能舍(いずのや)の意味は不明であるが、穴水恒雄は、トクヨの歌作の師・尾上柴舟が[[伊豆]]に別荘を持っていたことや、女高師の別称「お茶の水」からの連想で、泉の「いず」と校舎の「舎」から「いずのや」としたのではないかと推測している{{sfn|穴水|2001|p=32}}。|group="注"}}という雅号を使ったこともあるように、自身の声に自信を持っていた{{sfn|穴水|2001|p=31}}。
 
高等科4年の時、『日本外史』を朗々と読み上げる声が高等科2年にいた弟の清寿の教室まで聞こえてきたという{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=17}}。福島師範の学生時代には、帰省時に授業で習った[[唱歌]]を夕闇の中で大声で歌っていた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=25}}。石川高女では、[[浅野川]]の河原で早朝に号令練習をしていたところ、「全体、止まれ!」の号令に驚いた[[馬子]]が立ち止まった{{sfn|西村|1983|p=46}}。
 
=== イヌ・ネコ好き ===
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またある時、[[大阪市|大阪]]の街を歩いていると、瘦せた捨てイヌが木の下でうずくまっているのを見つけたので、近くのうどん屋に飛び込み、1杯の[[天ぷら]][[うどん]]を買ってそのイヌに与えたという{{sfn|西村|1983|p=246}}。
 
=== 金欠 ===
トクヨの人生には常に経済苦が付きまとった{{sfn|西村|1983|p=228, 255}}。女高師時代には既に学資の負債を抱えており、「死ぬに死ねない立場」と心境を綴っている{{sfn|西村|1983|p=35}}。石川高女時代は[[生命保険]]に入っていたが保険料が払えずに中途解約し、トクヨの金欠を見かねた同僚がトクヨに代わって軍事公債を買い受けたり、トクヨに体操を教えたミス・モルガンが宣教師館の1室にトクヨを住まわせたりしている{{sfn|西村|1983|p=41, 44}}。これに輪をかけて、実家が債主の手に渡る{{#tag:ref|1890年(明治23年)頃に建築されたもので、人手に渡った後、大光寺の[[庫裏]]となった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=13}}。建築当時、父の保治は三本木村長であったため、桑折区の住民総出で建設の手伝いに訪れたという{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=13}}。|group="注"}}ことになり、母・妹・末弟の3人を金沢に引き取った{{sfn|西村|1983|p=48}}。この3人は、トクヨの高知師範転任に伴い宮城県に帰り、長弟の清寿が面倒を見た{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=50}}。この間、清寿は結婚し、トクヨは[[羽織]]や[[袴]]を高知の[[呉服店]]に仕立てさせて送った{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=50-51}}。
 
体専時代には多額の借金を抱え、急場しのぎに持ち物の[[質屋|質入れ]]や学生から借金をすることもしばしばであった{{sfn|西村|1983|pp=227-228}}。それでも夫に先立たれた妹のとみとその娘に送金し、家計を支えた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=212}}。学生から借り入れ・返済するときは、必ず皆がそろう食堂で行い、「皆さんご承認を!」と叫んでいた{{sfn|西村|1983|p=228}}。金欠にもかかわらず、トクヨは人にものをあげるのを好み、学生から20円を借りると、20円の[[利息]]を付けて返した{{sfn|西村|1983|p=228, 245}}。トクヨの金欠を教え子はよく知っていたので、初任給を全額トクヨに寄付したり、雑誌『ちから』を200冊も買い取ったり、赴任先の名物を贈ったりして、トクヨや母校を支えようとしていた{{sfn|西村|1983|p=245}}。それでもトクヨは贈られてきた名物を在校生にあげてしまったという{{sfn|西村|1983|p=245}}。
 
結局、生前に借金を完済することはできず、遺品には多くの「金子借用書」が含まれていた{{sfn|西村|1983|p=227}}。
 
=== 対人関係 ===
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その後、智恵子が[[統合失調症|精神分裂症]]を発して入院した時に、トクヨは見舞いに行った{{sfn|西村|1983|p=26}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=213}}。その時の智恵子の症状はまだ軽かったが、トクヨを見た智恵子は後ろを向いてしまった{{sfn|西村|1983|p=26}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=213}}。トクヨは椅子に座り、2人は黙ったまま同じ姿勢を取り続け、30分ほどたってからトクヨは無言で立ち去った{{sfn|西村|1983|p=26}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=213}}。お互いのわがままさを示すエピソードであるとともに、そうしたわがままを許し合える関係だったことが分かるエピソードである{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=213-214}}。智恵子はトクヨより先に亡くなったが、トクヨが智恵子の死に何を思ったかは記録に残されていない{{sfn|西村|1983|p=26}}。
 
==== 人見絹枝 ====
[[ファイル:Hitomi Kinue in Gothenburg.jpg|thumb|人見絹枝(1926年/19歳)]]
人見絹枝とトクヨの出会いは、1924年(大正13年)4月に絹枝が二階堂体操塾に入塾した時である{{sfn|勝場・村山|2013|p=22}}。塾創設時のトクヨはアスリートを育成する気はなく、塾生がスポーツ[[エリート]]意識を持つことを嫌い、特定の種目に特化した生徒に特別な配慮をすることもなかった{{sfn|勝場・村山|2013|p=23}}。[[テニス]]の腕を磨きたかった絹枝は、理想と現実の差に思い悩み、退塾したいと思うこともあったが、夏休みに帰省した際に教師となることを家族に期待されていると感じて考え直した{{sfn|勝場・村山|2013|pp=23-24}}。トクヨの方も[[岡山県]]から絹枝に[[陸上競技]]大会への出場要請が来たことで、トップアスリートの養成が女子体育の発展に必要であると認識を改める契機となった{{sfn|勝場・村山|2013|pp=24-25}}。
 
トクヨが絹枝を認めてからは、絹枝のために急きょグラウンドを2倍に拡張して競技力向上を支援したが、トクヨは陸上競技を指導できなかったため、絹枝は野口源三郎『[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971709 オリムピック陸上競技法]』や文部省『[http://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982233 競走指針]』などの手引きを参考に自主練習に励んだ{{sfn|勝場・村山|2013|p=25}}。絹枝の卒業後、トクヨは一旦は京都市立第一高等女学校(現・[[京都市立堀川高等学校]])に送り出すも、8月には呼び戻して研究生とし、トクヨと絹枝の二人三脚で塾の専門学校昇格に向けて準備を進めた{{sfn|勝場・村山|2013|pp=27-31}}。昇格が認められた際には、2人で手を取り泣いたという{{sfn|勝場・村山|2013|p=31}}。
 
トクヨは「何一つ非の打ちどころの無い人物」と絹枝を手放しで絶賛し、体専に留めおきたいという思いが強かった{{sfn|勝場・村山|2013|p=30, 32}}。一方の絹枝は女子陸上競技のパイオニアとして更なる飛躍を目指し、トクヨの反対を振り切って[[大阪毎日新聞]]に入社した{{sfn|勝場・村山|2013|p=30, 32}}。絹枝が立て続けに大会に出場していた際には「こうした大会に出場することは大いに考えるべきこと」とトクヨはたしなめた{{sfn|勝場・村山|2013|p=64}}。
 
こうしてトクヨと絹枝は仲違いしてしまうが、その後和解したようで{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=143-144}}、[[1930年]](昭和5年)、国際女子競技大会への遠征費として金一封(1,000円)を絹枝に送った{{sfn|勝場・村山|2013|pp=64-65}}。[[1929年]](昭和4年)のトクヨの忠告は図らずも[[1931年]](昭和6年)に現実となり、絹枝は大阪帝国大学付属病院(現・[[大阪大学医学部附属病院]])に入院した{{sfn|勝場・村山|2013|p=81}}。同年[[5月31日]]、トクヨは絹枝の見舞いに訪れ、やつれた絹枝を見たトクヨは涙を流した{{sfn|勝場・村山|2013|p=81}}。絹枝も涙しつつ心配させまいと気丈に振る舞い、トクヨの差し入れである[[スイカ]]を2片食べた{{sfn|勝場・村山|2013|p=81}}。しかし絹枝は回復せず、[[8月2日]]に24歳の若さでこの世を去った{{sfn|勝場・村山|2013|p=82}}。トクヨは「スポーツが絹枝を殺したのではなく、絹枝がスポーツに死んだのです」という言葉を『[[婦人公論]]』に寄せた{{sfn|勝場・村山|2013|p=87}}。
 
==== 恋愛と縁談 ====
トクヨは生涯独身であった{{sfn|西村|1983|p=247}}が、年を重ねてからも結婚願望を抱き続けていた{{sfn|穴水|2001|p=143}}。
 
最初の縁談は、三本木小の恩師の仲介で、仙台出身の東京帝国大学法科大学(現・[[東京大学]][[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]])の学生との間で持たれ{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=28}}{{sfn|穴水|2001|pp=11-12}}、[[結納]]まで進んでいた{{sfn|穴水|2001|p=12}}。先方は[[一人親家庭|母子家庭]]で、トクヨの卒業と同時に結婚して家庭に入り、母の面倒を見ることを要望していた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=28}}{{sfn|穴水|2001|p=12}}。一方のトクヨは福島師範3年生(18歳)で、女高師への進学を夢見ており{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=28}}、進学と[[婚約]]は両立できるものと考え、女高師を受験、合格を果たした{{sfn|穴水|2001|p=12}}。女高師に進学すると、トクヨの思いに反して、先方は破談を申し入れた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=28}}。トクヨの家族は「法科の学生なのに[[人権]]無視だ」と憤り、仲介した恩師も「縁がなかった、意に介することはない」と慰めた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=29}}。この経験は長らくトクヨに暗い影を落とし、上京時には[[東京大学の建造物#門|赤門]]の前を通ると破談にした男と出くわすのではないかとひやひやし{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=28}}{{sfn|穴水|2001|p=12}}、その男が別の女性と結婚したと風の噂で聞いた時には悶絶した{{sfn|穴水|2001|pp=12-13}}。イギリスから帰国した際に、家族に[[松島]]旅行を勧められるも、[[新婚旅行]]で松島に行く予定だった苦い思い出から、トクヨは拒否し、「人の心も知らないで」とつぶやいた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=29-30}}。
 
高知師範では[[恋愛]]を経験している{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=52}}。相手は歩兵第44連隊の青年将校で、トクヨが慰問のため[[衛戍]]病院を訪ねたのが出会いのきっかけであった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=52-53}}。2人は順調に仲を深め、結婚を意識するまでになったが、連隊長が反対したため破談となった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=53}}。弟の清寿は姉トクヨから事の次第を手紙で知らされたが、掛ける言葉が見つからなかったという{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=53}}。
 
== 顕彰 ==
郷里の三本木にある大崎市三本木総合支所には、トクヨの胸像が設置されており<ref name="Osaki"/>、[[2019年]][[3月17日]]には二階堂トクヨ先生を顕彰する会{{#tag:ref|元・三本木町長を会長、大崎市の行政関係者が理事などの役員に就任して[[2016年]](平成28年)[[12月3日]]に発足した<ref>{{cite web|url=http://東京古川会.tokyo/nikaido-1.pdf|title=日本女子体育の母 二階堂トクヨ先生を顕彰する会|publisher=東京古川会|accessdate=2019-07-12}}</ref>。なお、大河ドラマ『いだてん』の制作発表は同年11月16日である<ref>{{cite web|url=https://www.nhk.or.jp/dramatopics-blog/2000/257134.html|title=2019年の大河ドラマは「オリンピック×宮藤官九郎」!|date=2016-11-16|publisher=NHK|work=NHKドラマ|accessdate=2019-07-16}}</ref>。|group="注"}}と館山公園を復活させる会が協同してトクヨを顕彰する看板を設置した<ref name="ks1903"/>。また、母校の三本木小学校では、2018年(平成30年)より校内[[縄跳び]]大会を「二階堂トクヨ杯」と銘打って開催し、「二階堂トクヨ先生を顕彰する会」の会員も観覧に来ている<ref>{{cite web|url=http://www2.educ.osaki.miyagi.jp/sanbongi-s/blog/index.php?bno=71|title=第2回二階堂トクヨ杯(校内なわとび大会|work=三本木小学校のブログ|date=2019-02-22|publisher=大崎市立三本木小学校|accessdate=2019-06-25}}</ref>。
 
トクヨが創設した日本女子体育大学では、学部1年生の[[教養]]演習でトクヨの生涯について見識を深める授業を行っている<ref name="sc">{{cite web|url=https://www.scenario.co.jp/online/22089/|title=創設者を、人間として深掘りするためのシナリオの使い方|work=シナリオ教室ONLINE|publisher=シナリオ・センター|date=2013-02-25|accessdate=2019-06-25}}</ref>。この授業は従来、テキストを読んで問いに答えるという「テストの読解問題」のような形式{{#tag:ref|例えば「トクヨが、金沢でノイローゼ同然になった原因を簡潔に説明しなさい」など<ref name="sc"/>。|group="注"}}をとっていたため学生から不評であったが、[[2012年]](平成24年)に外部講師を招いて、学生が[[脚本|シナリオ]]作りをするという方式で開講したところ、学生がトクヨに人間としての生き生きとしたイメージを持つようになったという<ref name="sc"/>。
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** 幼少期から書を好み、20歳頃に志田・[[玉造郡|玉造]][[郡役所]]書記に就任、[[松山町 (宮城県)|松山]]の[[戸長]]を経て三本木に戻り、戸長・村長を務める{{sfn|西村|1983|pp=8-9}}。しかし途中で挫折し、酒に溺れ、一家離散の原因を作った{{sfn|穴水|2001|p=10}}。[[1904年]](明治37年)、48歳で死去{{sfn|西村|1983|p=9}}。
* 父方の叔母:佐藤トリノ{{sfn|西村|1983|p=10}}
** 保治の妹{{sfn|西村|1983|p=10}}。[[仙台市|仙台]]に住んでおり、夏休みにトクヨを家に呼んだ{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=15}}。
* 父方の叔父:佐藤文之進{{sfn|西村|1983|p=14}}
** トリノの夫で小学校教師{{sfn|西村|1983|p=14}}。トクヨに『日本外史』を教え、トクヨの勉学の才能を開花させた{{sfn|西村|1983|p=14}}。
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* 母:二階堂キン{{sfn|西村|1983|p=9}}
** 小梁川正之助の長女{{sfn|西村|1983|p=9}}。18歳で保治と結婚する{{sfn|穴水|2001|p=10}}。気丈で男勝りな性格であり、畑仕事は得意であったが文字は読めず、[[裁縫]]もできなかった{{sfn|西村|1983|p=9}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=13}}。しかし字面の雰囲気でほぼ正確に内容を読み取り、[[古川市|古川]]の裁縫塾に通って裁縫を身に付けたという{{sfn|西村|1983|p=9}}{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=13}}。夫亡き後は1人で家を支え、後に二階堂体操塾の運営も手助けした{{sfn|西村|1983|p=9}}。1943年(昭和18年)、85歳で死去{{sfn|西村|1983|p=9}}。
* 母方の叔父:小梁川文平
** キンの弟{{sfn|西村|1983|p=9}}。東京在住で、トクヨが東京で頼れる唯一の親類であったが、トクヨにとってあまりいい思い出のない人であった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=194-196}}。トクヨが助教授時代に受けた見合いに立ち会うも不機嫌に振る舞い、教授時代には息子の結婚式を手伝わせてトクヨに多額の出費をさせている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=194-196}}。式の後トクヨはのどを患ってしばらく出勤できず、その間文平に[[斬首刑|打ち首]]にされるという悪夢を見ている{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|pp=192-196}}。
* 養父:[[小笠原貞信 (政治家)|小笠原貞信]]{{sfn|西村|1983|pp=20-21}}
** [[嘉永]]6年[[2月 (旧暦)|2月]](グレゴリオ暦:[[1853年]]3月) - [[1903年]]([[明治]]36年)[[2月18日]]{{sfn|西村|1983|pp=20-21}}。[[検事]]・[[判事]]・[[弁護士]]・[[衆議院]][[議員]]{{sfn|西村|1983|pp=20-21}}。[[福島民報]]の社長を務めていた頃にトクヨから手紙を受け取り、形式上、養女として迎え入れた{{sfn|西村|1983|p=20}}。トクヨの祖父・小梁川正之助から「鍋でも釜でも洗わしてください」とトクヨを預けられたが、「勉強に精進していただきたい」と応じてトクヨの勉学専念環境を整えた{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=22}}。1896年(明治29年)3月から1909年(明治42年)[[7月30日]]までトクヨは小笠原姓を名乗った{{sfn|西村|1983|p=21}}。
* 長弟:二階堂清寿
** [[1882年]](明治15年)[[12月5日]] - [[1976年]](昭和51年)[[8月14日]]{{sfn|西村|1983|pp=9-10}}。[[小学校教員]]、[[公務員]]{{sfn|西村|1983|pp=9-10}}。[[仙台市]]内で校長など{{#tag:ref|北五番丁高等小学校([[仙台市立第二中学校]]の源流)、東二番丁尋常小学校(現・[[仙台市立東二番丁小学校]])校長や宮城県女子師範学校教諭を務めた{{sfn|西村|1983|p=9}}。|group="注"}}を務めた後、[[仙台市役所]]学務課長に就任する{{sfn|西村|1983|pp=9-10}}。弟妹の中でトクヨが最も信頼を置いていた。トクヨの死後、二階堂美喜子(トクヨの養女)に頼られて日本女子体育専門学校の2代目校長に就任する{{sfn|穴水|2001|p=27}}。94歳没{{sfn|西村|1983|p=10}}。
* 末弟:二階堂真寿
** [[1894年]](明治27年)[[6月5日]] - [[1977年]](昭和52年)[[11月29日]]{{sfn|西村|1983|p=11}}。[[牧師]]・教育者{{sfn|西村|1983|p=11}}。トクヨが留学中に家族に送った手紙を無断で[[新聞社]]に提供して記事に掲載されてしまい、トクヨを激怒させてしまっ経験がある{{sfn|穴水|2001|p=81}}。駒込教会・九段教会で牧師を務めた後、聖学院神学部(現・[[聖学院大学]])・梨花女子専門学校(現・[[梨花女子大学校]])講師や延禧専門学校(現・[[延世大学校]])教授となった{{sfn|西村|1983|p=11}}。二階堂体操塾創設時から教鞭をとり、[[1944年]](昭和19年)より日本女子体育専門学校教授、[[1965年]](昭和40年)に日本女子体育大学教授、[[1975年]](昭和50年)に[[学校法人二階堂学園]]理事長に就任する{{sfn|西村|1983|p=11}}。83歳没{{sfn|西村|1983|p=11}}。
* 妹:村田とみ
** 名前は「登美子」とも書く{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=212}}。トクヨの留学中に、[[許婚]](村田順義)がありながら別の男性と恋仲になり、トクヨを怒らせた{{sfn|穴水|2001|pp=79-80}}。後、村田と結婚して村田姓となる{{sfn|西村|1983|p=11}}。2人の娘を出産するも、夫に先立たれ、長女も後を追うように死亡した{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=212}}。夫亡き後、主にトクヨの資金援助で生活する{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=212}}。[[1954年]](昭和29年)に67歳で死去{{sfn|西村|1983|p=10}}。
* 養女:二階堂美喜子
** [[1919年]](大正8年)[[6月25日]] - [[1949年]](昭和24年)[[9月23日]]{{sfn|西村|1983|p=10}}。トクヨの妹・とみの子(次女{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=212}})、すなわちトクヨの[[姪]]であるが、死期を悟ったトクヨに{{sfn|穴水|2001|p=27}}1941年(昭和16年)4月14日付で{{sfn|西村|1983|p=10}}半強制的に養女にされる{{sfn|穴水|2001|p=27}}。美喜子はトクヨの資金援助で[[日本女子大学]]家事科を卒業させてもらい{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=212}}、卒業後すぐに{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=212}}死を目前にしたトクヨの身の回りの世話を任され、医師・看護師以外では唯一人、臨終の瞬間を看取った{{sfn|穴水|2001|pp=143-150}}。トクヨから後を託されるも{{sfn|穴水|2001|p=27}}、1949年(昭和24年)に[[薬物中毒]]で30歳の若さで急逝する{{sfn|西村|1983|p=10}}。
 
== 著書 ==
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東京女子高等師範学校の生徒時代には[[安井てつ]]の指導を受けた{{sfn|曽我・平工・中村|2015|p=1997}}。安井は後に二階堂体操塾の理事を務めることでトクヨを支えた{{sfn|曽我・平工・中村|2015|p=1997}}。
 
イギリス留学で学んだスポーツの普及に努め、'''[[クリケット]]と[[ホッケー]]を[[日本]]に初めて紹介した'''<ref name="Osaki"/>{{sfn|西村|1983|p=178}}。トクヨはこの2競技を女子のスポーツとして日本に持ち帰った{{sfn|西村|1983|p=178}}。特にホッケーは体専時代に校技と呼べるほど盛んで、対外試合では常に上位にあった{{sfn|二階堂・戸倉・二階堂|1961|p=64}}。
 
== 演じた人物 ==