「大木統光」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
8行目:
| 死没 = 不明
| 改名 =
| 別名 = 俊光、知光、兵部少輔([[仮名 (通称)|通称]])
| 諡号 =
| 神号 =
25行目:
| 特記事項 =
}}
 
'''大木 統光'''(おおき むねみつ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[蒲池氏]]の家臣。[[大友義統]]から[[偏諱]]を受け'''統光'''を名乗る。
 
32 ⟶ 31行目:
主君鎮漣が和睦したばかりの[[龍造寺隆信]]の執拗な誘いを断りきれず、[[天正]]9年([[1581年]])に[[肥前国]]へ出立したことを知ると、鎮漣の後を追いかけ、危険を理由に肥前行きの取り止めを進言するが聞き入れなかった。後に肥前で蒲池鎮漣が謀殺されたことを知った統光は、佐賀の[[鍋島直茂]]の元へ行き、鎮漣の後を追い切腹しようとしたが止められ、浪人となる。
 
後に[[鍋島氏|鍋島家]]に召し抱えられ、その子孫は[[鍋島佐賀藩]]の大物頭となり、明治の政治家で[[華族]]([[伯爵]])の[[大木喬任]]も子孫の一人である。
 
{{DEFAULTSORT:おおき むねみつ}}
[[categoryCategory:戦国武将]]
[[category:蒲池氏|むねみつ]]
[[Category:大木兵部少輔家|むねみつ]]
[[category:戦国武将]]
[[categoryCategory:筑後国の人物]]
[[categoryCategory:生没年不詳]]