「わたしが・棄てた・女」の版間の差分

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[[ヒロイン]]の森田ミツは、実際にハンセン病と誤診され、後に[[看護婦]]となった経歴を持つ[[井深八重]]がモデルとなっている。遠藤自身が最も好きな登場人物であると語り、後の作品にも同名の人物が度々登場する。
 
現行の[[講談社文庫]]版、『遠藤周作文学全集』所収の版では「トルコ風呂」が「[[ソープランド]]」に書き換えられている。これは1984年にトルコ人青年からの抗議で同施設が改名されたことによるが、開業当初のトルコ風呂は現在のソープランドのような[[性風俗]]施設ではないため、不適切な改変だという指摘もある<{{#tag:ref>|小谷野敦『反=文藝評論』、伊藤裕也『娼婦学ノート』より。なお、小谷野も伊藤も、吉岡が1950年にトルコ風呂へ行ったと見て、トルコ風呂開業は1951年なのでおかしいと指摘しているが、これはテクストの誤読で、1951年以降と読むことができる</ref>。|group="注"}}
 
== 初出・書誌 ==
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== 映像化・舞台化作品 ==
 
=== 映画 ===
原作の時代設定、その精神などから距離を置くことなく忠実に映像化した作品は、今のところ現われていない。
{{Infobox Film
|作品名=私が棄てた女
|原題=
|画像=
|画像サイズ=
|画像解説=
|監督=[[浦山桐郎]]
|脚本=[[山内久]]
|原案=
|原作=遠藤周作
|製作=
|製作総指揮=
|ナレーター=
|出演者=[[河原崎長一郎]]<br />[[浅丘ルリ子]]<br />[[加藤治子]]<br />[[小林トシ江]]<br />[[加藤武]]<br />[[岸輝子]]
|音楽=[[黛敏郎]]
|主題歌=
|撮影=[[安藤庄平]]
|編集=
|製作会社=[[日活]]
|配給=日活
|公開={{Flagicon|JPN}} [[1969年]][[9月3日]]
|上映時間=116分
|製作国=
|言語=
|製作費=
|興行収入=
|前作=
|次作=
}}
[[1969年]][[9月3日]]、[[日活]]の製作・配給。[[河原崎長一郎]]主演、[[浦山桐郎]]監督。
 
=== キャスト ===
*吉岡努:[[河原崎長一郎]]
*三浦マリ子:[[浅丘ルリ子]]
*三浦ユリ子:[[加藤治子]]
*森田ミツ:[[小林トシ江]]
*森田八郎:[[加藤武]]
*森田キネ:[[岸輝子]]
*深井しま子:[[夏海千佳子]]
*武隈:[[江角英明]]
*長島繁男:[[江守徹]]
*友人太田:[[山根久幸]]
*清水修一:[[辰巳柳太郎]]
*清水綱子:[[織賀邦江]]
*清水修造:[[大滝秀治]]
*清水友枝:[[北原文枝]]
*清水修巳:[[中村孝雄]]
*清水由起子:[[阪口美奈子]]
*大野義雄:[[小沢昭一]]
*赤提灯のてる:[[佐々木すみ江]]
*医者:[[遠藤周作]]
*医者:[[佐野浅夫]]
*看護婦:[[園佳也子]]
 
=== スタッフ ===
*監督:[[浦山桐郎]]
*脚色:[[山内久]]
*原作:遠藤周作
*企画:[[大塚和]]
*撮影:[[安藤庄平]]
*美術:[[横尾嘉良]]
*音楽:[[黛敏郎]]
*録音:[[紅谷愃一]]
*照明:[[岩木保夫]]
*編集:[[丹治睦夫]]
=== 製作 ===
==== キャスティング ====
** 浦山桐郎監督の当初のイメージは、吉岡が[[小林旭]]、ミツは[[都はるみ]]だったという<ref>[[田山力哉]]『小説 浦山桐郎 夏草の道』([[講談社]]。文庫版も同社から発売)より</ref>。結局、[[ギャラ]]の問題などもあり、実際には[[河原崎長一郎]][[小林トシ江]]が演じている。原作者の遠藤が医者役で[[カメオ出演]]している。
 
企画して完成まで足かけ5年かかり、河原崎のスケジュールの都合で、1969年に入って撮影準備を始め<ref name="東タイ1969">{{Cite news |title = 奇妙!不況下の"おクラ"続出 こんどは日活『私が棄てた女』 怒る監督や主演者 理由も不鮮明 『観客層に合わない』 |date = 1969年6月30日 |newspaper = [[東京タイムズ]] |publisher = 東京タイムズ社 |page = 7 }}{{Cite news |title = 『私が棄てた女』ヒットの波紋 よい映画を作ろう 日活製作陣にヤングパワー 妥協せず独自の企画『朝霧』上映運動も準備 |date = 1969年10月31日 |newspaper =東京タイムズ|publisher = 東京タイムズ社 |page = 10 }}</ref>、同年年5月に完成した<ref name="東タイ1969"/>。
 
=== 興行 ===
しかし完成した折には日活は題名から内容まで徹底的に[[東映]]作品のマネをした映画製作に転換し<ref name="東タイ1969"/><ref>{{Cite book |和書 |author=[[小林旭]] |year=2011 |title=永遠のマイトガイ 小林旭 |publisher=[[たちばな出版]] |pages=134 }}{{Cite journal |和書 |author = |journal = [[週刊読売]] |issue = [[1969年]]([[昭和]]44年)[[7月25日]]号 31頁 |title = 日活"マネマネ路線"に屈した本家東映 |publisher = [[読売新聞社]] }}</ref><ref name="週刊朝日196907">{{Cite journal | 和書 | author = | year = | title = "やくざ路線"ハネ飛ばされた浦山桐郎監督 一年越しの『私が棄てた女』おクラに | journal = [[週刊朝日]] |issue = [[1969年]]([[昭和]]44年)[[7月11日]]号 | publisher = [[朝日新聞社]] |page = 107 }}{{Cite journal | 和書 | author = | year = | title = "貧すれば…"か、日活ヤクザ、ピンクに転向 | journal = [[週刊朝日]] |issue = [[1969年]]([[昭和]]44年)[[7月4日]]号 | publisher = [[朝日新聞社]] |page = 113 }}</ref>、これが思いもほか成功<ref name="内外19690718">{{Cite news |title = 任侠映画で激しく対立 日活、東映のスパイ合戦マネ? とんでもないお株奪う日活、あわてる東映 防衛策として奥の手 |date = 1969年7月18日 |newspaper = [[内外タイムス]] |publisher = 内外タイムス社 |page = 5}}</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author = | title = 映画界東西南北談議情報 業界の上昇ムードの材料が豊富 | journal = 映画時報 |issue = 1969年7月号 |publisher = 映画時報社 | pages = 32 }}{{Cite journal|和書 |author = | title = スタープロの作品の登場で刺激剤キャストの強化などで作品を大型化"第二東映"で結構稼ぐ日活| journal = 映画時報 |issue = 1969年9月10号 |publisher = 映画時報社 | pages = 7 }}{{Cite news |title = 東映、岡田映画本部長(常務) 来季の製作構想を語る |date = 1969年6月21日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher =全国映画館新聞社 |page = 5 }}</ref>、日活は[[ヤクザ映画]]オンリーになっていた<ref name="内外19690718"/><ref name="週刊映画1969">{{Cite news |title = 今週のことども 『日活浦山監督自主上映執念』|date = 1969年7月5日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}{{Cite news |title = 今週のことども 『私が棄てた女』宣伝演技見事 |date = 1969年9月6日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref>。浦山の「くずれた世相の中で、現代人がもがき苦しむ愛の断片を描く異色ドラマ」なる意図はラインから外れた<ref name="週刊朝日196907"/><ref name="週刊映画1969"/>。日活は折角ヤクザ路線で客足に安定性が生まれつつある時だけに、それと『私が棄てた女』を併映して客を減らしては困るという心配があり公開が決まらず[[お蔵入り|おクラ入り]]した<ref name="東タイ1969"/><ref name="週刊朝日196907"/>。
 
腹を立てた浦山は、併映作なしでの一本立て[[ロードショー (映画用語)|ロードショー]]を主張したが埒が明かず、[[日本アート・シアター・ギルド|ATG系]]での上映を働きかけたが<ref name="東タイ1969"/>、ATGから「『[[心中天網島 (映画) |心中天網島]]』を年内いっぱい上映を予定しているので公開は1970年以降になる」と回答された<ref name="東タイ1969"/>。『私が棄てた女』は日本映画輸出振興協会から1億二千万円の[[融資]]を受けており<ref name="内外19690723">{{Cite news |title =葬られた社会派、文芸映画その事情と裏側は『私が―』など五本バカにできぬ製作費|date = 1969年7月23日 |newspaper = 内外タイムス |publisher = 内外タイムス社 |page = 5}}</ref>、1969年中に公開しなければならない事情があった<ref name="内外19690723"/>。仕方なく自ら日活の試写室を借りてマスコミや[[映画評論家]]を集め[[試写会|試写]]を行ったり、ホールを借りて試写会を行ったり必死の努力を続けた<ref name="東タイ1969"/><ref name="週刊映画1969"/>。マスコミや評論家から「久しぶりに見ごたえがある意欲作。早い時期に公開すべき」と激賞され<ref name="内外19690723"/>、「なぜ公開しないのか」「上映しろ」と投書が日活に舞い込むようになった<ref name="東タイ1969"/>。1969年8月6日に[[堀久作]]社長も出席して全国配給会議が開かれ<ref name="内外19690723"/>、議論百出の末、社長一任となり、堀が「配給せず」と断を下した。ところが翌8月7日に至り、社長の断で「上映する」となり、急遽1969年9月3日の封切が決まった<ref name="週刊映画1969"/>。頑固親父の堀社長の断が二日でコロリと全く反対のものに変わったことにマスコミは宣伝大芝居だろうと推察した<ref name="週刊映画1969"/>。公開されるや、おクラ入り騒ぎが格好の宣伝になり予想外の大ヒット<ref name="東タイ1969"/>。浦山は「映画界には企画の波があるのが常だが、監督として大事なのは波に足元をすくわれない主体性だ。監督が主体性を失っては、映画は結局滅びるだろう」などと意気上がったが<ref name="東タイ1969"/>、堀雅彦常務は「話題になったからたまたま当たっただけ。今後は浦山君にも日活の基本線に沿って[[ヤクザ映画|任侠映画]]を撮らせる」と反論<ref name="東タイ1969"/>。浦山は「わたしにやくざ映画が作れるわけがない。作ろうとも思わない。会社の方がエロと暴力以外には、客が来ないという[[動脈硬化症]]に陥っている」とさらに反論した<ref name="東タイ1969"/>。この一件で日活の若手監督で結成しているグループ・ふるるプロなどが浦山に賛同し、会社の路線とは別に独自の動きをするようになった<ref name="東タイ1969"/>。
 
 
* 私が棄てた女(1969年、[[日活]])
** [[浦山桐郎]]監督、[[山内久]]脚本、[[黛敏郎]]音楽。
**[[浅丘ルリ子]]、[[小林トシ江]]、[[河原崎長一郎]]、[[小沢昭一]]、[[加藤武]]、[[加藤治子]]、[[露口茂]]、[[佐野浅夫]]ほか出演
** 浦山監督の当初のイメージは、吉岡が[[小林旭]]、ミツは[[都はるみ]]だったという<ref>[[田山力哉]]『小説 浦山桐郎 夏草の道』([[講談社]]。文庫版も同社から発売)より</ref>。結局、ギャラの問題などもあり、実際には河原崎長一郎と小林トシ江が演じている。原作者の遠藤が医者役で[[カメオ出演]]している。
* [[愛する (映画)|愛する]](1997年、日活) - [[熊井啓]]監督、[[酒井美紀]]主演。時代設定など現代風にアレンジされている。
* [[天使の肌]](2002年、フランス) - [[ヴァンサン・ペレーズ]]監督。[[クレジットタイトル|クレジット]]に明記はないものの、翻案ではないかという指摘がある。
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** 初演を観劇した遠藤周作が「自分の作品で泣いたのは初めてだ」と語り、亡くなる直前までこのミュージカルのビデオを何回も見ていたという<ref>順子夫人の著書「[[夫の宿題]]」より</ref>。1994年以降も幾度か再演されている。
 
== ==
{{脚注ヘルプ}}
<references group="注"/>
 
== 出典 ==
{{Reflist}}
{{reflist|1}}
<br>
 
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| 次番組=[[羽衣富士]]
}}
 
==外部リンク==
* {{Allcinema title|142997|私が棄てた女}}
* {{Kinejun title|22458|私が棄てた女}}
 
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