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{{by|1937年}}[[9月11日]]には[[後楽園球場]]が開場<ref>後楽園における巨人の初試合は翌12日の対大阪戦で、9対8で敗れている。</ref>、以来実質的な本拠地として使用する。春季戦は7月11日に対[[翼軍|セネタース]]戦([[上井草球場|上井草]])に勝利して前年に続く2季連続優勝を達成<ref name="usa135" />。秋季戦は大阪に7戦全敗して9ゲーム差の2位に終わり、初めて優勝を逃す。戦前は巨人と大阪の2球団で優勝を分け合うことになった。
 
[[File:Victor Starffin00.jpeg|right|thumb|「巨」マークのユニフォームを着る[[ヴィクトル・スタルヒン]]]]|ヴィクトル・スタルヒン(当時の登録名は須田博)]]]]
{{by|1939年}}より年間通じてのリーグ戦となり、11月9日の対[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]戦(後楽園)に勝利して2季連続優勝。1月と12月の2度に渡ってマニラ遠征を行っている<ref name="gh" />。{{by|1940年}}、[[9月13日]]には戦局悪化の影響で、連盟より英語禁止の通達が出て、ジャイアンツのニックネームを使わず、ユニフォームのマークが「GIANTS」から「巨」に改められている<ref name="gh" />。[[11月10日]]の対阪神戦(後楽園)に勝利し、3季連続優勝。{{by|1941年}}は[[10月29日]]の対阪神戦(後楽園)に勝利して4季連続優勝。{{by|1942年}}は[[香川県立志度高等学校|志度商業学校]]から[[川畑博]]が入団する。捕手だったが、戦時中ということもあって投手も兼任していた。同年の春季リーグ17歳で球団史上最年少の初出場、初登板、初先発、初奪三振、初打席、初安打・二塁打、初打点の記録を樹立、[[11月1日]]の対[[オリックスバファローズ|阪急]]戦(甲子園)に勝利して、5季連続優勝。{{by|1943年}}は[[10月31日]]の対[[中日ドラゴンズ|名古屋]]戦(後楽園)に勝利して、6季連続優勝<ref name="usa135" />。徴兵により3季ぶりの復帰となった沢村栄治は[[10月24日]]の対阪神戦での代打出場を最後に、翌1944年シーズン前に解雇されており、同年3度目の徴兵を受けて12月2日に戦死。