「深谷藩」の版間の差分

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== 藩史 ==
[[小田原征伐]]後に関東に入った[[徳川家康]]は、深谷に[[譜代]]の家臣・[[松平康直]]([[長沢松平家]])を封じ1万石を与えた。しかし康直は[[文禄]]2年([[1593年]])に24歳で死去した。康直には嗣子がく、家康の子・[[松平松千代|松千代]](生母は側室・[[茶阿局]])が[[長沢松平家]]の家系を継いだ。松千代は[[慶長]]4年([[1599年]])、5歳で早世し、同母兄である[[松平忠輝|忠輝]]が家督を継いだ。忠輝は[[慶長]]7年([[1602年]])、[[下総国]][[佐倉藩]]4万石へ加増移封となったため、深谷藩は廃藩となった。
 
慶長15年([[1610年]])7月から[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])10月までは[[松平忠重]]が8000石で同地を治めているが、万石以下の、大身ではあっても[[旗本]]であるため大名(藩)とはされない。
 
その後、元和8年([[1622年]])[[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]]が1万石で入り、深谷藩が再び立藩する。忠勝は[[寛永]]元年([[1624年]])8月、[[上総国]]・武蔵・下総国内に2万石を加増され、[[老中]]に列せ任じられる。その後も2万石を加増され、合計5万石の大名となった。忠勝は小農民を保護し、藩政の確立に努めたが、寛永4年([[1627年]])に父で[[川越藩]]主であった[[酒井忠利]]が死去したため、その跡を継ぎ川越藩主となったため、深谷藩は廃藩となり、深谷城も寛永11年([[1634年]])に破却された。
 
== 歴代藩主 ==
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[[Category:藩]]
[[Category:武蔵国|藩]]
[[Category:長沢松平氏|藩]]
[[Category:小浜酒井家|藩ふかや]]