「筒井城」の版間の差分

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第一次筒井城の戦いから11年後、再び大和、河内で勢力を拡大してきた畠山義就が筒井城にも攻城してきた。この時もかなりの大軍だったらしく、くなった筒井順永軍は、筒井城から脱出し南西へ約10km距離をおいた箸尾城に退避した。
 
義就の反対勢力であった畠山政長に属していた諸将は、この時それぞれの城下町が焼かれ、多くの死傷者が出て、殆どが敗れていた。この時の悲惨な状況は『大乗院寺社雑記事』に詳しく記述されている。その後大和は義就派に抑えら掌握されることになる。
[[ファイル:Tutuij6.jpg|thumb|left|250px|光専寺の山門/筒井城内に建つ]]{{-}}
=== 第三次筒井城の戦い ===
筒井順永は筒井氏の中興の明主と言われ、大和武士随一の地位を築き、[[十市氏]]、[[布施氏]]、[[宝来氏]]、[[木津氏]]、箸尾氏、[[福住氏]]等の[[国人]]衆を麾下に加えていった。俗に「筒井党」と称されることになる。しかし、順永が[[文明 (日本)|文明]]8年([[1476年]])4月3日に死去すると筒井城も再び狙われることになる。
 
順永の後は長男の[[筒井順尊]]が継いだが、[[越智家栄]]、[[古市氏]]連合軍は抜け目なく翌文明9年([[1477年]])1月に攻城してきた。順尊に反撃する力はなく、「十一日、夜筒井本城焼失」(『大乗院寺社雑記事』による)記載されている。その後順尊は未だ勢力圏にあった福住城に逃げ去って行った。
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十一日、夜筒井本城焼失|4=大乗院寺社雑記事
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と記載されている。その後順尊は未だ勢力圏にあった福住城に逃げ去って行った。
 
10月に改めて畠山政長軍に合力した順尊は、箸尾氏らと共に河内に出軍したが敗れ、大和に引き返した。この敗戦がきっかけとなり越智党を勢いづけることになり、本格的に大和を支配することになる。一方順尊は[[長享]]3年([[1489年]])7月22日に[[京都]]で客死してしまい弟の[[成身院順盛]]が順尊の遺児[[筒井順賢|順賢]]の後見人として筒井氏を取り仕切ることになる。
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[[ファイル:Sugataniji2.jpg|thumb|left|250px|菅田比売神社の本殿/筒井城内に建つ]]
畠山義就軍は、反対勢力が籠城していた河内[[犬田城]]を文明15年([[1483年]])8月13日より攻城した。この時「越智党」に属していた古市氏は大いに武名を上げ、同年9月27日に犬田城は落城した。勢いに乗った古市軍は、2日後の29日に筒井城も攻城した。この動きに即応して十市、箸尾両軍は援護に回るべく筒井城の南側にある結崎に陣取った。古市軍は調略を巡らし、箸尾軍は古市軍へ寝返り、筒井城は落城してしまった。
 
筒井軍は東山内へ落ち延びていき逃走し、十市軍は藤井方面に逃げ去って行っ走した。この戦いで周辺の村は焼かれてしまった。{{-}}
=== 第五次筒井城の戦い ===
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[[永正]]年間には大和は[[赤沢朝経]]や養子の[[赤沢長経|長経]]に抑えられていた。大和の国人衆は対抗して[[国一揆|国人一揆]]を形成、大和国人一揆衆とも呼ばれている。ただ古市氏や狭川氏はこの一揆衆には加わらず赤沢軍に加担したようである。
 
しかし[[永正の錯乱]]で[[細川政元]]が[[暗殺]]、赤沢朝経が[[丹後国|丹後]]で戦死、大和で駐留していた赤沢軍が京都に退いていくと、大和の覇権支配をめぐり再び争い始める事になる。それまで越智党と戦術的に和議を結んでいた筒井党であったが、もともと宿関係にあった越智氏、古市氏が永正13年([[1516年]])10月に攻城して、成身院順盛軍は敗れ去る事になるった
 
この頃、越智党には[[畠山義英]]が、筒井党には[[畠山稙長]]が加わったが、翌永正14年([[1517年]])8月に両者の間で和睦が成立すると、筒井、越智、古市氏の間でも和議が成立した。{{-}}
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[[ファイル:Tutuijk5.jpg|thumb|筒井順慶の五輪塔覆堂/重要文化財指定]]
その後大和は二転三転する。越智、古市氏の間でも和議が成立し、筒井氏はようやく大和の覇権を握れるようになるが、突如[[享禄]]元年([[1528年]])に[[柳本賢治]]が乱入してくると頓挫してしまう。賢治が[[中嶋の戦い]]で[[暗殺]]されると[[木沢長政]]が大和北半国を治める事になったが、長政も[[太平寺の戦い]]で討死にすると、今度は[[十市遠忠]]が台頭してきて[[筒井順昭]]は十市遠忠と大和の覇権支配をめぐって競い合った。[[天文 (元号)|天文]]14年([[1545年]])に遠忠も死亡すると、念願であった大和の制圧に成功した。
 
しかし、悲運にも苦労して大和の覇権勝ち取っ掌握した順昭であったが、同年にしてしまう。家督は子の[[筒井順慶|順慶]]に移ったがまだ幼少であったため、[[松永久秀]]が[[永禄]]2年([[1559年]])に大和へ侵攻し、筒井城は永禄8年([[1565年]])11月に久秀から攻撃をうけ、炎上してしまった。その後[[東大寺大仏殿の戦い]]があり翌永禄9年([[1566年]])には取り戻すが、永禄11年([[1568年]])10月に再び松永軍に占領されてしまう。
:''この時の[[筒井氏]]、[[松永氏]]の[[攻城戦]](第六次筒井城の戦い以降)ついては[[筒井城の戦い]]も参照。''
松永方に移った筒井城は[[多聞山城]]、[[信貴山城]]に次ぐ重要拠点して用いられた。これは[[郡山城 (大和国)|郡山城]]を攻める拠点として、多聞山城と信貴山城のルートを確保するため繋ぎの城、[[支城]]であった。この時の松永方の[[史料]]には筒井城の事を「[[平城]]」とだけ記されている。
 
[[元亀]]2年([[1571年]])8月、松永軍と[[辰市城#辰市城の合戦|辰市城の合戦]]で筒井軍が勝利すると、順慶の力は侮れないと見を重視しのか、[[明智光秀]]の仲介により[[織田信長]]に帰服を許し筒井城を回復した。やがて久秀は信長に謀反を起こして自殺([[信貴山城の戦い]])、一方の順慶は[[天正]]7年([[1579年]])に筒井城を改修しようと多聞山城の[[石垣]]を筒井城に移したが、信長の「大和一国破城命令」により[[廃城]]とし、居城を郡山城に移した。翌[[天正]]8年([[1580年]])8月17日の事であった。
 
=== 歴代城主 ===