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'''小川宮'''(おがわのみや/こかわのみや、[[応永]]11年[[6月28日]]([[1404年]][[8月4日]]) - 応永32年[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]([[1425年]][[3月6日]]))は、[[室町時代]]の[[日本]]の[[皇族]]。[[後小松天皇]]の第2皇子。母は[[日野西資国]]の娘・光範門院[[日野西資子]]。同母兄弟に、兄の[[称光天皇]]、妹の理永女王がいる。諱は伝わらず『[[本朝皇胤紹運録]]』はただ「皇子」とのみ記す<ref group="註">[[中世]]の[[皇族]]が諱を命名される契機としては、[[元服]]と[[親王宣下]]
称光天皇の[[儲君]]<ref>事実上の皇太子。正統性に問題があった[[後光厳天皇]]の子孫の天皇がいずれも皇太子を経ずに即位した結果、この時代には皇太子はそもそも冊立しないのが常態となっていた。</ref>に治定され、その後継者とされていた<ref>吉田・220頁</ref><ref name="足利義持p168"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.168</ref><ref>『本朝皇胤紹運録』『薩戒記』</ref>が、元服を待たずに死去した。
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はじめは単に「二宮」とだけ呼ばれ、父と同居していた。だが、宮は兄の[[称光天皇]]と同様に性格に難があり、かつその気性は兄より荒かった<ref>吉田・220頁</ref>。
応永27年([[1420年]])1月3日、[[屠蘇]]を飲む御薬という新年祝賀行事の最中、妹を「蹂躙」する事件を起こしている<ref>吉田・220頁</ref>。「蹂躙」の内容は不明であるが、
経興邸に移住後、応永29年([[1422年]])3月に兄の称光天皇が危篤になり、8月に父と義持の間で話し合いが行われ、宮は儲君に決まった<ref>吉田・220頁</ref>。その後、兄は病床から回復したが、かねてからの兄弟仲の不仲もあって、宮が儲君とされたことについて父や弟に対する怒りを隠さなかった<ref name="足利義持p169"/>。
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応永32年(1425年)2月16日、翌月に[[元服]]を控えながら、22歳で急死した<ref name="足利義持p169"/><ref>吉田・247頁</ref>。あまりにも突然の死に毒殺の噂が立ち<ref name="足利義持p169"> 伊藤喜良 著『人物叢書‐足利義持』吉川弘文館、2008年、p.169</ref>、経興が一時犯人として疑われた。
[[今出川公行]]の娘が[[側室]]として仕えていたが、子
== 脚注 ==
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