「反共主義」の版間の差分

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1930年2月、イギリスの{{仮リンク|海峡植民地総督|en|Governor of the Straits Settlements}}がセシル・クレメンティへと代わり、警察にかける費用を拡大させた<ref name="england-comintern">[http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/53828/1/KJ00004062923.pdf イギリス帝国治安維持システムとコミンテルン・ネットワーク: ルフラン事件(1931)を事例として] 鬼丸武士 2005年</ref>。[[1931年]]、海峡植民地警察は、海峡植民地の一部であるシンガポールで、フランス人の共産主義者[[セルジュ・ルフラン]](本名ジョセフ・ジュクルー)を逮捕した<ref name="england-comintern"/>。[[6月15日]]には、[[上海租界]]の{{仮リンク|共同租界工部局警察|en|Shanghai_Municipal_Police}}がソ連スパイでプロフィンテルン極東組織である太平洋労働組合書記局の書記員[[イレール・ヌーラン]](本名ヤコブ・ルドニック)を逮捕し([[牛蘭事件]]、ヌーラン事件)、極東における赤化機関の全容や、政府要人の暗殺・湾港の破壊計画が明るみに出た<ref name="nuran-shinmon">[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071151&TYPE=HTML_FILE&POS=1 牛蘭事件の審問 第三国際の東洋攪乱] 満州日報 1931年9月18日</ref><ref>[http://books.google.co.jp/books?id=XKVKVd0ATj0C&pg=frontcover 抗日支那の真相] 中国通信社 1937年</ref>。また、押収された文書には、「国民政府の軍隊内に、共産党の細胞を植付け、其戦闘力を弱める事が最も必要」だと記されていた<ref name="nuran-shinmon"/>。1931年7月、[[万宝山事件]]及び[[朝鮮排華事件]]が発生し、日中関係は悪化の一途を辿った。その後、同年に日本は[[満州事変]]を起こし、1932年3月には[[満州国]]が建国する。1932年4月、日本において、プロフィンテルン日本支部の[[日本労働組合全国協議会]](全協)の中央常任委員長であった[[溝上弥久馬]]が逮捕された<ref>[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071437&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1 首謀溝上捕縛さる 全協の正体漸く判明 当局を悩ました神出鬼没宛然左翼の総帥] 東京朝日新聞 1932年7月1日</ref>。
 
1929年に[[世界恐慌]]が発生すると、ドイツ、イタリア、日本などで[[全体主義]]([[ファシズム]])や[[軍国主義]]が台頭し始めた。日本では、1931年に早稲田大学教授政治学博士の[[五来欣造]]がイタリア、フランス、ドイツ、イギリス、ロシアを回り、1932年に「ファッショか共産主義か」という講演を行っており、1933年に講演録が発行された<ref name="fascio-or-communism"/>。これらの国々も同様に共産主義を危険視して否定し、徹底的に取締りを行ない、共産主義者を社会から排除した。{{要出典範囲|date=2019年6月18日|ところが「社会を国家権力によって一元的に統制する」点において全体主義は共産主義と共通している。日本では、共産主義者から[[国家社会主義]]者への[[転向]]が多かったとされる}}。{{要出典範囲|date=2019年6月18日|日本国内においては[[昭和研究会]]・[[満鉄調査部]]などの組織や[[革新官僚]]と呼ばれる者たちの思想的背景には社会主義あるいは共産主義と遜色のないものも見られた}}。{{要出典範囲|date=2019年6月18日|実際、彼らと緊密に関わった[[近衛文麿]]は、後に「国体の衣を着けたる共産主義」と評している}}。{{要出典範囲|date=2019年6月18日|また、日本における右翼思想家で国家社会主義者として知られた[[北一輝]]は、明治維新を「天皇を傀儡とした社会主義革命」と規定し、[[昭和維新]]はそれを完成させる革命と考えた}}。{{要出典範囲|date=2019年6月18日|また北一輝の影響を受けた[[二・二六事件]]の当事者の将校たちは、ボリシェヴィキの蜂起教範を参考にしたといわれる}}。その他、日本の[[戦時体制]]は、ソ連の計画経済の影響を受けていたとされる
 
1933年、満州国ハルビンにおいて[[白系ロシア人]]による反共主義的組織の[[ロシアファシスト党]]が生まれる。彼らは親日的ではあったが、親独的かつ[[反ユダヤ主義]]でもあったため、日本の[[八紘一宇]]の精神や親ユダヤ政策([[河豚計画]])、満州国の民族協和政策([[五族協和]])との間に整合性の問題が起きることとなった。同地では、ロシアでの赤化革命の首謀者はユダヤ人であるなどとして、[[反ユダヤ主義]]が広まっていた。1934年、ドイツはソ連に対抗するため、ポーランドに同盟を提案したが失敗した。