「佐世元嘉」の版間の差分

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天正20年([[1592年]])から始まる[[豊臣氏]]による[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]で、主君の輝元が肥前[[名護屋城]]に滞陣している間は留守となっている毛利領の政治を任されている。また、輝元が[[朝鮮]]から帰国した[[文禄]]2年([[1593年]])8月以降、毛利氏の中央行政は、元嘉のほかに[[二宮就辰]]、[[榎本元吉]]、[[堅田元慶]]、[[張元至]]の5人の輝元出頭人が担うようになった。この5人は、様々な出自や経歴を持つ人物たちで出自や家格にとらわれず能力評価に基づいて人材登用を図る輝元の姿勢が窺える。[[文禄]]3年([[1594年]])[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]、輝元から「[[石見国#武家官位としての石見守|石見守]]」の[[受領名]]を与えられた。
 
[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]に際しても、[[広島城]]の留守居役を務めるなどしている。毛利氏の防長移封後は旧所領の六ヶ国返租問題の解決に取り組み、その解決に導いた。また、[[長州藩]]の重職の[[当職]]になったのも元嘉が最初である。また、[[一国一城令]]で廃城になるまで周防国山口の[[高嶺城]]の城番を務めた
 
しかし、次第に輝元は嫡男・秀就の伯父である[[児玉元兼]]や譜代家臣筆頭格の[[福原広俊]]、有力国人筆頭格の[[益田元祥]]を重用するようになっていた。この3人は幕府との交渉に携わって上方へ滞在することも多いが、元嘉は在国していることが多いため幕閣との親交が深くなく、毛利氏減封の一因とされた[[三津浜夜襲|伊予出兵]]に元嘉が深く関与していた{{Efn|伊予出兵は元嘉、[[村上武吉]]・[[村上元吉|元吉]]父子、[[伊予国|伊予]][[国人]]・[[曽根景房]]らが中心となって準備を行っていた。}}ことも影響し、そうした幕府との関係の浅さが元嘉の権限を制約していった。そのため、元嘉は慶長13年([[1608年]])頃には当職の座を退いている{{Sfn|光成|2019|p=191}}。翌慶長14年([[1609年]])には「佐世宗孚書案」を記した{{Efn|「佐世宗孚書案」は藩政の表舞台から去った直後に書かれたものであるため、元嘉の藩政に対する不満を反映した内容となっているとされ。一例として、[[毛利秀元]]が輝元の養子となった経緯や、[[小早川秀秋]]が[[小早川隆景]]の養子となった際の経緯について明らかに事実と異なる記述をしており、故意に虚説を記したものと考えられている{{Sfn|光成|2019|p=189-191}}。}}。
慶長6年([[1601年]])[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]に兄の正勝が死去した。正勝には嗣子がいなかったため、元嘉の嫡男の[[佐世元量|元量]]が佐世氏の家督と正勝の知行300石を相続した。慶長8年([[1603年]])[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]に輝元から「[[長門国#武家官位としての長門守|長門守]]」の[[受領名]]を与えられ、慶長18年([[1613年]])[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]には2633石余の知行を与えられた<ref>内訳は、[[周防国]][[吉敷郡]][[嘉川駅|賀川庄]]1247石6斗余、[[長門国]][[厚狭郡|厚東郡]][[小野村 (山口県厚狭郡)|小野村]]827石3斗余、長門国[[美祢郡]][[共和村 (山口県)|嘉万郷]]531石1斗余、長門国[[阿武郡]][[篠生村|篠目村]]26石9斗余。</ref>。また、一国一城令で廃城になるまで周防山口高嶺城の城番として務めた。
 
慶長6年([[1601年]])[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]に兄の正勝が死去した。正勝には嗣子いなかっいまま死去したため、元嘉の嫡男である[[佐世元量|元量]]が佐世氏の[[家督]]と正勝の知行300石を相続した。慶長8年([[1603年]])[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]に輝元から「[[長門国#武家官位としての長門守|長門守]]」の[[受領名]]を与えられ、慶長18年([[1613年]])[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]には2633石余の知行を与えられた<ref>{{Efn|内訳は、[[周防国]][[吉敷郡]][[嘉川駅|賀川庄]]1247石6斗余、[[長門国]][[厚狭郡|厚東郡]][[小野村 (山口県厚狭郡)|小野村]]827石3斗余、長門国[[美祢郡]][[共和村 (山口県)|嘉万郷]]531石1斗余、長門国[[阿武郡]][[篠生村|篠目村]]26石9斗余。</ref>。また、一国一城令で廃城になるまで周防山口高嶺城の城番として務めた}}
 
隠居に際しては子の元量に2000石の知行を譲り渡し、[[元和 (日本)|元和]]6年([[1620年]])[[7月9日 (旧暦)|7月9日]]に死去した。享年75。
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* 『[[閥閲録|萩藩閥閲録]]』巻24「佐世大学」
* [[光成準治]]『ミネルヴァ日本評伝選 小早川隆景・秀秋 ―消え候わんとて、光増すと申す―』[[ミネルヴァ書房]]、[[2019年]]
 
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