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== 政治経歴 ==
=== レジスタンス活動 ===
[[File:Partisans in Tirana.jpg|thumb|right|200px|[[ティラナ]]を掌握するホッジャの部隊(1944年)]]▼
[[1939年]]4月、[[イタリア]]がアルバニアに侵攻すると、ホッジャは[[アルバニアファシスト党|アルバニア・ファシスタ党]]への参加を拒絶したため教師の職を解雇された。ホッジャは[[ティラナ]]でタバコ屋を開き、間もなくそこには共産主義者達が集うこととなる。ホッジャは[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]ら[[ユーゴスラビア]]の[[パルチザン]]によって支援され、[[1941年]]11月にアルバニア共産党(1948年以降は[[アルバニア労働党]])を結成し、[[レジスタンス運動]]を展開した。同党は[[1944年]]11月に政権を樹立し、ホッジャが首相に就いた。
▲[[File:Partisans in Tirana.jpg|thumb|right|[[ティラナ]]を掌握するホッジャの部隊(1944年)]]
戦後の[[1946年]]に[[アルバニア人民共和国]]の建国を宣言、最高指導者となった。ホッジャは正統派[[マルクス・レーニン主義]]を宣言し、[[ヨシフ・スターリン]]を崇拝した。ソ連寄りの政策を取り、スターリニズムに基づく社会主義国家建設を目指した。1948年にはソ連と対立して[[チトー主義]]を掲げたユーゴスラビアとの国交を断絶した。また、ホッジャはユーゴスラビアとの関係を支持した{{仮リンク|コチ・ヅォヅェ|en|Koçi Xoxe}}国防大臣を[[1949年]]処刑した。[[1954年]]首相職を[[メフメット・シェフー]]に譲るが、引き続き労働党第一書記として権力を揮った。スターリンの死後、ソ連の最高指導者となった[[ニキータ・フルシチョフ]]によって「[[スターリン批判]]」が行われるとソ連との外交関係を絶ち、[[プラハの春]]におけるソ連の軍事介入を批判して[[1968年]]に軍事同盟の[[ワルシャワ条約機構]]を脱退した。[[中華人民共和国]]に接近して[[アルバニア軍|アルバニア人民軍]]は[[人民服]]風の軍装を着て大量の中国の[[59式戦車]]や戦闘機の[[J-6 (航空機)|J-6]]などで武装してワルシャワ条約機構と[[北大西洋条約機構]](NATO)で軍事装備が分かれていた[[冷戦]]時代の[[ヨーロッパ]]で異様な軍隊となっていた<ref>{{cite web |url=http://armstrade.sipri.org/armstrade/page/trade_register.php |title=Arms Transfers Database |date= |website=[[ストックホルム国際平和研究所]] |access-date=2018-06-27}}</ref>。▼
=== アルバニア建国 ===
▲戦後の[[1946年]]に[[アルバニア人民共和国]]の建国を宣言、最高指導者となった。ホッジャは正統派[[マルクス・レーニン主義]]を宣言し、[[ヨシフ・スターリン]]を崇拝した。ソ連寄りの政策を取り、スターリニズムに基づく社会主義国家建設を目指した。1948年にはソ連と対立して[[チトー主義]]を掲げたユーゴスラビアとの国交を断絶した。また、ホッジャはユーゴスラビアとの関係を支持した{{仮リンク|コチ・ヅォヅェ|en|Koçi Xoxe}}国防大臣を[[1949年]]処刑した。[[1954年]]首相職を[[メフメット・シェフー]]に譲るが、引き続き労働党第一書記として権力を揮った。スターリンの死後、ソ連の最高指導者となった[[ニキータ・フルシチョフ]]によって「[[スターリン批判]]」が行われるとソ連との外交関係を絶ち、[[プラハの春]]におけるソ連の軍事介入を批判して[[1968年]]に軍事同盟の[[ワルシャワ条約機構]]を脱退した
[[画像:Mao Zedong and Enver Hoxha.jpg|thumb|right|200px|[[毛沢東]]と面会するホッジャ(1956年)]]▼
[[1971年]]には[[国際連合]]で[[アルバニア決議]]を共同提案して国際社会で友好国の中国が確固たる立場を築くのに一役を買った。しかし、ホッジャは翌[[1972年]]の[[ニクソン大統領の中国訪問]]には批判的であり、[[リチャード・ニクソン]]を「熱烈な[[反共主義]]者」と嫌った<ref name=nixon>Hoxha, Enver (1982). Selected Works, February 1966 – July 1975. IV. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 656–668.</ref>。1976年にホッジャは毛沢東の葬儀に出席するも、中国が[[フランコ体制下のスペイン]]や[[チリ]]の[[アウグスト・ピノチェト]]政権など反共的な国々と国交樹立したこと<ref>Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China. 2. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 166–167.</ref>や中国の[[3つの世界論]]は「[[第三世界]]の[[超大国]]」<ref name=nixon/><ref>Hoxha, Enver (1985). Selected Works. 5. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 617–618, 697–698.</ref>になることを目論んでいるとホッジャは批判しはじめ、[[華国鋒]]・[[鄧小平]]時代となると中国からの援助は途絶えた({{仮リンク|中ア対立|en|Sino-Albanian split}})。▼
=== 中国への接近と断絶 ===
▲ソ連と国交断絶したアルバニアとホッジャは、[[中華人民共和国]]に接近した。[[アルバニア軍|アルバニア人民軍]]は[[人民服]]風の軍装を着て大量の中国の[[59式戦車]]や戦闘機の[[J-6 (航空機)|J-6]]などで武装してワルシャワ条約機構と[[北大西洋条約機構]](NATO)で軍事装備が分かれていた[[冷戦]]時代の[[ヨーロッパ]]で異様な軍隊となっていた<ref>{{cite web |url=http://armstrade.sipri.org/armstrade/page/trade_register.php |title=Arms Transfers Database |date= |website=[[ストックホルム国際平和研究所]] |access-date=2018-06-27}}</ref>。[[1967年]]には中国の[[文化大革命]]にも影響されて「世界初の[[国家無神論|無神国家]]」としてあくまで[[宗教]]と[[信仰]]をめぐる一立場にすぎない[[無神論]]を[[国家]]([[政府]])の原則とし<ref>{{cite web |url=https://www.chicagotribune.com/news/ct-xpm-2007-04-18-0704170802-story.html |title=Albania finds religion after decades of atheism |date=2007-04-18 |website=[[シカゴ・トリビューン]] |access-date=2019-05-26}}</ref>、全ての宗教を完全に否定かつ禁止して全国の[[教会]]と[[モスク]]を閉鎖させ、あらゆる信仰の表明は、公的にであれ私的にであれ、違法となった。一方で、農業や教育を重視して識字率を5%から98%に改善して食糧の自給も達成した<ref>40 Years of Socialist Albania, Dhimiter Picani</ref>。[[1971年]]には[[国際連合]]で[[アルバニア決議]]を共同提案して国際社会で友好国の中国が確固たる立場を築くのに一役を買った。しかし、ホッジャは翌[[1972年]]の[[ニクソン大統領の中国訪問]]には批判的であり、[[リチャード・ニクソン]]を「熱烈な[[反共主義]]者」と嫌った<ref name=nixon>Hoxha, Enver (1982). Selected Works, February 1966 – July 1975. IV. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 656–668.</ref>。1976年にホッジャは毛沢東の葬儀に出席するも、中国が[[フランコ体制下のスペイン]]や[[チリ]]の[[アウグスト・ピノチェト]]政権など反共的な国々と国交樹立したこと<ref>Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China. 2. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 166–167.</ref>や中国の[[3つの世界論]]は「[[第三世界]]の[[超大国]]」<ref name=nixon/><ref>Hoxha, Enver (1985). Selected Works. 5. Tirana: 8 Nëntori Publishing House. pp. 617–618, 697–698.</ref>になることを目論んでいるとホッジャは批判しはじめ、[[華国鋒]]・[[鄧小平]]時代となると中国からの援助は途絶えた({{仮リンク|中ア対立|en|Sino-Albanian split}})。
=== ホッジャ主義 ===
[[1978年]]に「アルバニアは世界で唯一マルクス・レーニン主義国家である」と宣言し<ref>Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China. II. Tirana: 8 Nëntori Publishing House.</ref><ref>Vickers, Miranda (1999). The Albanians: A Modern History. New York: I.B. Tauris & Co Ltd. p. 203. p. 107</ref>、独自の[[ホッジャ主義]]を提唱した。ホッジャはユーゴスラビアのチトーだけでなく、同様にソ連と距離を置いていた[[ルーマニア]]の[[ニコラエ・チャウシェスク]]、さらに[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[金日成]]<ref>Enver Hoxha, "Reflections on China II: Extracts from the Political Diary", Institute of Marxist-Leninist Studies at the Central Committee of the Party of Labour of Albania," Tirana, 1979, pp 516, 517, 521, 547, 548, 549.</ref>に対してもマルクス・レーニン主義に反すると批判して[[共産圏]]の陣営でも孤立を深めた。また、西欧諸国の共産党が[[ユーロコミュニズム]]に転向すると、「ユーロコミュニズムは反共主義である」という論文を発表し、以後は{{仮リンク|ニュージーランド共産党|en|Communist Party of New Zealand}}や[[日本共産党(左派)]]([[長周新聞]]、[[劇団はぐるま座]])を始めとする「アルバニア派」と呼ばれる各国の政党と関係を持ち、後にアルバニア派政党の国際組織も結成されている。▼
[[File:HODŽA druhá míza.jpg|thumb|right|200px|演説するホッジャ(1971年)]]
▲[[1975年]]に[[米ソデタント]]の波から[[東欧諸国]]と[[西欧諸国]]が参加した[[全欧安全保障協力会議]]と[[ヘルシンキ宣言 (全欧安全保障協力会議)|ヘルシンキ宣言]]も拒否して欧州の安全保障の枠組みからも外れたアルバニアは隣国の[[ギリシャ]]やユーゴスラビアとも領土問題を抱え、アルバニアを国際社会から隔離させる鎖国政策を断行することとなった<ref>Crampton, R. J. (1997). Eastern Europe in the Twentieth Century and After. Routledge – Taylor & Francis Group. pp. 356–357. ISBN 0-415-16423-0.</ref><ref>Galaty, Michael L.; Stocker, Sharon R.; Watkinson, Charles (2009). "The Snake That Bites: The Albanian Experience of Collective Trauma as Reflected in an Evolving Landscape". In Brown Golden, Kristen; Bergo, Bettina (eds.). The Trauma Controversy: Philosophical and Interdisciplinary Dialogues. SUNY Press. p. 176. ISBN 978-1-4384-2819-2.</ref>。[[1978年]]に「アルバニアは世界で唯一マルクス・レーニン主義国家である」と宣言し<ref>Hoxha, Enver (1979b). Reflections on China. II. Tirana: 8 Nëntori Publishing House.</ref><ref>Vickers, Miranda (1999). The Albanians: A Modern History. New York: I.B. Tauris & Co Ltd. p. 203. p. 107</ref>、独自の[[ホッジャ主義]]を提唱した。ホッジャはユーゴスラビアのチトーだけでなく、同様にソ連と距離を置いていた[[ルーマニア]]の[[ニコラエ・チャウシェスク]]、さらに[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[金日成]]<ref>Enver Hoxha, "Reflections on China II: Extracts from the Political Diary", Institute of Marxist-Leninist Studies at the Central Committee of the Party of Labour of Albania," Tirana, 1979, pp 516, 517, 521, 547, 548, 549.</ref>に対してもマルクス・レーニン主義に反すると批判して[[共産圏]]の陣営でも孤立を深めた。また、西欧諸国の共産党が[[ユーロコミュニズム]]に転向すると、「ユーロコミュニズムは反共主義である」という論文を発表し、以後は{{仮リンク|ニュージーランド共産党|en|Communist Party of New Zealand}}や[[日本共産党(左派)]]([[長周新聞]]、[[劇団はぐるま座]])を始めとする「アルバニア派」と呼ばれる各国の政党と関係を持ち、後にアルバニア派政党の国際組織も結成されている。
[[1981年]]、ホッジャは、数名の党および政府高官の処刑を命じ、新たな[[粛清]]を行った。当時のメフメット・シェフー首相は1981年12月にアルバニアの指導者間闘争が原因の自殺をしたと伝えられたが、おそらく粛清に巻き込まれたと考えられている。
=== 死去 ===
[[File:Grave Hoxha.jpg|thumb|right|200px|ホッジャの墓地(2006年)]]
ホッジャは[[1985年]]4月11日に死去した。{{没年齢|1908|10|16|1985|4|11}}。葬儀に際しては、ホッジャの遺言により外国政府の弔問は[[弔問外交]]の場になるとしてことごとく拒否され、ソ連からの弔電は突き返され、外国人ジャーナリストの入国は許可されなかった<ref>{{Cite book|和書|author=NHK取材班|title=NHK特集 現代の鎖国アルバニア
ホッジャの死後、後継者の[[ラミズ・アリア]]の下でアルバニア
▲葬儀に際してはホッジャの遺言により外国政府の弔問は[[弔問外交]]の場になるとしてことごとく拒否され、ソ連からの弔電は突き返され、外国人ジャーナリストの入国は許可されなかった<ref>{{Cite book|和書|author=NHK取材班|title=NHK特集現代の鎖国アルバニア |pages=174頁|publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]]|date=1987-05}}</ref>。ティラナには[[ピラミッド]]の形をしたホッジャの[[霊廟]]({{仮リンク|エンヴェル・ホッジャ博物館|en|Pyramid of Tirana}})も建設された。
▲ホッジャの死後、後継者のアリアの下でアルバニアは内政および外交における開放が進むことになった。[[東ヨーロッパ]]における共産主義の退潮が鮮明になるとともに、アルバニアも[[1990年]]に一党独裁を放棄し、アルバニア労働党は[[アルバニア社会党|社会党]]へと改名したが、[[1992年]]の選挙では大敗することとなった。
== 著作 ==
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