「日中戦争」の版間の差分

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== 呼称 ==
{{Main2|日本における呼称の変遷|支那事変}}
1937年7月11本側でに[[近衛内閣]]は、紛争が勃7日から北京周辺でした当初は戦闘を「[[北支事変]]、1937年9た。813日から上海でも戦闘が発生し戦線が北支と南支に及んだ[[第1次近衛内閣]]の[[閣議]]決定'''、9月2日に「[[支那事変]]'''」とする事正式の呼称と閣議決定した{{sfn|波多野澄雄|2010-01-31|p=1}}<ref name="kakugikettei19370902">{{cite web |date=1937-09-02 |url=http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00145.php |title=事変呼称ニ関スル件 |work=[[内閣官房]] |publisher=[[国立国会図書館]] |accessdate=2011-01-22 }}</ref>{{sfn|波多野澄雄|2010-01-31|p=1}}[[1941年]][[12月912]]時の[[蒋介石東條内閣]]は、8日[[対米宣戦布告と翌9日の中政府|重慶政府]]が日本よる対日宣戦布告を受けて支那事変も含めた今回の戦争にエスカレートしたこと受け、[[東條内閣]]は10日の閣議で[[大東亜戦争]]の一部」と12日含めることを閣議決定した<ref name="kakugikettei19411212">{{cite web| date = 1941-12-12| url = http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00362.php| title = 今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ| work = [[内閣官房]]| publisher = [[国立国会図書館]]| accessdate = 2011-10-15}}</ref>。大東亜戦争の開始日は1937年7月7日となった。なお、中国側は「中国抗日戦争」と称している
 
[[戦争]]でなく[[事変]]とされたのは、[[盧溝橋事件]]後の本格的な戦闘が行われても、1941年12月太平洋戦争が勃発するまで日中国は政府が互いに[[宣戦布告]]をおこなわなかったためからである。その主な理由として双方が[[、正式な戦争状態になるとアメリカ合衆国|アメリカ]]政府[[中立法]]が発動されてしまい、対米貿易よる経済裁を避限が掛たことによられ事を本側は事態の早期収拾も狙中双方が嫌たためだと言われていた{{sfn|波多野澄雄|2010-01-31|p=1}}特に華民国側は軍需物資品の輸入に問題が生じることを懸念していた{{sfn|石川禎浩|2010|p=178}}。日本側は早期収拾の機会を常に伺っていたので宣戦布告までは踏み切れなかったとされる{{sfn|波多野澄雄|2010-01-31|p=1}}。
 
== 時期区分 ==
日中戦争期間の一般的な見解は1937年〜1945年までであるが{{sfn|庄司潤一郎|2011|p=79}}、日本では歴史認識の違いによって大戦の呼称 (位置付けが[[大東亜戦争]]、[[十五年戦争]]、[[アジア太平洋戦争]]) がれかに分かれており様々な解釈がある{{sfn|庄司潤一郎|2011|p=43}}、日中戦争の位置づけには様々な解釈がある。[[臼井勝美]]は「前史: [[塘沽協定]]から - [[盧溝橋事件]]まで、1933年6月~1937年7月一期: 盧溝橋事件から - [[太平洋戦争]]勃発まで、1937年7月~1941年12月)開幕二期: 太平洋戦争から敗北まで、1941年12月~1945年8月 - 終戦」の三期に区分している<ref name="臼井1">臼井勝美『日中戦争-和平か戦線拡大か-』中公新書 1532、2000年4月25日、ISBN 4-12-101532-0、1頁。</ref>。[[小林英夫 (経済学者)|小林英夫]]は「前史 [[満洲事変]]から - 盧溝橋事件勃発前まで一期 盧溝橋事件から - [[武漢作戦|武漢攻略]]まで二期 武漢作戦から攻略 - 太平洋戦争勃発まで開幕三期 太平洋戦争勃発から - 終戦まで」の四期に区分している<ref name="小林7">小林秀夫『日中戦争-殲滅戦から消耗戦へ <講談社現代新書 1900>』講談社、2007年7月20日、ISBN 978-4-06-287900-2、7頁。</ref>。
 
中国共産党の公式見解としては、抗日戦争の開始は1935年の抗日人民宣言から始まりまたは1937年の[[盧溝橋事件]] ([[七七事変]]) から(盧溝橋事件)とされていたが、[[2017年]]1月[[中華人民共和国教育部|中国教育省]]は中国従来歴史教科書で使われていにある「日本の侵略に対する中国人民の8年間の抗戦」という表現を、日中戦争満州事変始まりを口火となった[[1931年]]の「柳条湖事件]]発生時の1931年まで6年遡らせて「14年間の抗戦」に改めると発表した<ref>[https://newsphere.jp/world-report/20170112-1/ 中国、抗日戦争14年間に教科書修正 海外から“歴史改ざん”の指摘] NewSphere 2017-1-12</ref>。それに伴い中国抗日戦争の期間は1931年〜1945年となった
 
==前史==
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</gallery>
 
8月15日、[[第1次近衛内閣|近衛内閣]]は「もはや隠忍能わず暴支膺懲し南京政府の反省を促す」と声明し、陸軍に[[上海派遣軍]]を編制させた。第二次上海事変の勃発で日中両国は事実上の全面戦争状態に突入する事になった<ref>[[臼井勝美]]「上海事変」外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会編『新版日本外交史辞典』山川出版社、1992年5月20日 発行、ISBN 4-634-62200-9、387頁。「第2次上海事変はついに日中全面戦争に発展するにいたった。」</ref><ref>『永久保存版 シリーズ20世紀の記憶 第7巻 大日本帝国の戦争 2 太平洋戦争: 1937-1945』毎日新聞社、2000年4月1日 発行、11頁。「上海・南京攻略により華北の戦火は華中に飛び、戦いは「日中全面戦争」へと拡大、泥沼化する。」、22頁。「年表 第2次上海事変から日中全面戦争へ」</ref><ref>[[茶谷誠一]]『昭和天皇側近たちの戦争』吉川弘文館、2010年5月1日 第一刷発行、ISBN 978-4-642-05696-0、136頁。「第二次上海事変により (中略) 日中戦争は日中全面戦争化、長期戦化する様相となった」</ref><ref>安井三吉「日中戦争」『日本大百科全書⑰』小学館、787頁。[全面化] 八月一四日、国民政府は「自衛抗戦声明書」を発表、翌一五日中国共産党も「抗日救国十大綱領」を提起した。</ref><ref>[[芳井研一]]「日中戦争」吉田裕・森武麿・伊香俊哉・高岡裕之編『アジア・太平洋戦争辞典』吉川弘文館、二〇一五年十一月十日 第一版第一刷発行、ISBN 978-4-642-01473-1、508頁。「八月に入って第二次上海事変が起こり、戦火は華中一帯にひろがった。中国全土を巻きこんだ日本と中国との全面戦争となった。」</ref>。17日に日本政府は不拡大方針の放棄も閣議決定し<ref name="usu77to87" />、18日に英仏が申し出た仲裁案も辞退した<ref name="kawakami152to171" />。蒋介石も[[中華民国の歴史#南京国民政府期(1928年〜1949年)|中華民国]][[中国国民党|国民党]]の蒋介石も中国全土に向けた総動員令を発して戦時体制を確立した。21日に[[中ソ不可侵条約]]が締結され、同年9月から1941年6月までの間にソ連側から航空機車と各種車両、重火器と歩兵銃、弾薬などの軍事支援を得が多数供与された<ref name="usu90to92" /><ref name="usu90to922">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p90-92</ref>。[[中国共産党]]は抗日救国十大綱領を発表して抗日戦争を強力に支持し、8月22日に[[紅軍|共産党軍(紅軍)]]は[[国民革命軍|国民党軍]]の指揮下に入って[[八路軍|第八路軍]]と称した<ref>[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p77</ref><ref name="osugi284to288" />。9月22日に[[第二次国共合作]]が正式成立した<ref name="osugi284to288" />。
 
=== 上海攻略 ===
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{{Main|南京戦}}上海戦の惨敗は、蒋介石に国民革命軍が未だ近代化の途上にある事を痛感させた。中国陸軍の四分の一にあたる50万人の軍勢が日本軍10万人に為す術もなく敗れ、虎の子である中国空軍も日本海軍航空隊に大きく遅れを取った。「学者老人、軍事敗北、将軍落胆、革命欠落、もはや日本と戦争する理由も分からない」と日記に書いた蒋介石は<ref>[[楊天石]]:《揭開民國史的真相》卷五,蔣介石真相之二,風雲時代,2009年,61頁</ref>開戦四ヶ月で早くも正攻法では太刀打ちできない事を悟り、奇策と遊撃を駆使して日本軍を消耗戦に引きずり込むという抗戦持久方針に路線変更した。以後の中国大陸では各地で数十万人規模の「会戦」が頻発しつつも、日本軍に押された中国軍が手応えなく退いて占領地だけが無駄に広がっていくという光景が恒例となり、これは1945年の無条件降伏まで続いた。
 
1937年11月7日、上海派遣軍と第10軍を併せて編制された[[中支那方面軍]]は、上海市内の鎮圧をほぼ終えた11日に<ref name="osugi289to2943">[[大杉一雄]]『日中十五年戦争史』p289-294</ref>日本政府の指導で上海大道政府を設置した。また中国軍の追撃を固く禁じられた。11日にスターリンは対日参戦の見送りを蒋介石に伝える一方で<ref name="usu90to923">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p90-92</ref>ソ連義勇兵を緊急派遣した<ref name="usu90to924">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p90-92</ref>。15日、第10軍司令官[[柳川平助|柳川]]中将が独断で南京への追撃を始めた<ref name="une1">畝元正己「証言による南京戦史(1)」『偕行』昭和59年(1984年)4月号、偕行社、p27-31.</ref><ref name="nihonkyod">[[波多野澄雄]] [[庄司潤一郎]]:[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 日中歴史共同研究2010].近現代史「第2部第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦」</ref>。19日、南京陥落を不可避と見た蒋介石は重慶遷都を決定したが<ref name="usu124to135" />、湖北省方面への全軍撤退を完成させる為の時間稼ぎとして10万人規模の篭城部隊を残す決断も下し、その司令官に[[唐生智]]上将を就けた<ref name="nihonkyod3">[[波多野澄雄]] [[庄司潤一郎]]:[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 日中歴史共同研究2010].近現代史「第2部第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦」</ref>。同時に南京城外15マイル一帯にある河川の橋を落とし全ての家屋を焼き払い食料を根こそぎ持ち去るという[[空野清野作戦|清野作戦]]も実行に移した<ref name="une2">畝元正己「証言による南京戦史(2)」『偕行』昭和59年(1984年)5月号、偕行社、p10-14.</ref><ref>鈴木「南京大虐殺のまぼろし」p172-173</ref>。20日、日本政府に大本営が設置された。陸軍参謀本部は24日に第10軍の独断専行を追認する形で江蘇省全域の攻略を許可した<ref name="kawakami152to171" />。中支那方面軍が南京に向かって進撃する中で、12月1日に大本営は南京占領も許可した。
 
* 11月8日、[[北支那方面軍]]が山西省[[太原]]を攻略。日本軍は[[山西省 (中華民国)|山西省]]を占領した。
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12月1日、スターリンは国際世論を理由に対日参戦を再度拒否し蒋介石を失望させた<ref name="usu90to92" />。翌日から国民党内で昨月の日本の和平案が前向きに検討され始めた。3日から中支那方面軍は南京の攻囲作戦を開始し、上海派遣軍は東から、第10軍は南から軍を進めて周辺の陣地を占領しつつ南京を取り巻く長大な城壁へと迫った。[[唐生智]]上将が国際安全区にも部隊を入れたので同区委員[[ジョン・ラーベ|ラーベ]]が抗議したが黙殺された。南京脱出前の蒋介石は和平交渉を受け入れる余地があるとトラウトマン大使に語り、7日に日本政府へ伝えられた<ref name="osg289to300" />。7日未明から蒋介石を始めとする政府高官が次々と航空機で南京から脱出した。南京市内には唐生智上将率いる防衛隊約10万人と民間人概ね50万人が残されたが、正確な人数については諸説あって定まっていない。9日に総攻撃準備を終えた中支那方面軍は、10日正午を期限とする降服勧告を出したが回答は無かった。
 
12月10日、[[中支那方面軍]]の各隊が南京に向けて一斉攻撃を開始した。上海のドイツ式防御陣地とは対照的に、南京の巨大な城壁は野戦砲と空爆のいい的でしかなく、崩落する瓦礫と飛散した破片が却って守備兵を危険に晒した。南京の各城門は集中砲撃と爆撃に耐えられず守備兵が退避した後に、日本兵が梯子でよじ登って突破されるという結末を辿った。12日18時に日本兵は南京市内に突入した。同市街は中国兵、便衣兵、民間人、日本兵でごった返した混乱の坩堝と化し、前日に蒋介石から撤退指示を受けていた唐生智上将は、各部著に最後の指令を出した後の20時に市外北へと脱出し揚子江の対岸に渡った。指令内容は敵包囲網の突破退却を敢行させるというものだったが、督戦隊を含めた多くの部署に伝わる事はなく、潰走する中国兵が北の揚子江に面した挹江門に殺到し、同門からの逃亡を阻止する督戦隊との間で[[挹江門事件]]と呼ばれる激しい同士討ちが発生した。
 
12月13日、中支那方面軍の各部隊が続々と城門ないし城壁を越えて市内に入り、夕方には大きな市街戦が見られなくなって南京占領が宣言された<ref name="nihonkyod2">[[波多野澄雄]] [[庄司潤一郎]]:[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 日中歴史共同研究2010].近現代史「第2部第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦」</ref><ref name="chinakyod">栄維木([[中国社会科学院]]近代史研究所「抗日戦争研究」編集部執行編集長)[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_c_translate.pdf 日中歴史共同研究中国側論文(和訳)].「第二部 第二章 日本の中国に対する全面的侵略戦争と中国の全面的抗日戦争」,2010,[[日中歴史共同研究]].</ref>。しかし中国側の小部隊が未だ各所で抵抗を続けており、逃走した中国兵および便衣兵も市内に多数潜伏していた。日本兵たちは引き続き残敵の掃討戦に移った。この日からいわゆる[[南京事件 (代表的なトピック)|南京大虐殺]]が起きたとされるが、その真相については現在に到るまで[[南京大虐殺論争|大きな論争]]を巻き起こしている。14日に東京では南京攻略祝賀の提灯行列が行なわれた<ref name="chinakyod2">栄維木([[中国社会科学院]]近代史研究所「抗日戦争研究」編集部執行編集長)[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_c_translate.pdf 日中歴史共同研究中国側論文(和訳)].「第二部 第二章 日本の中国に対する全面的侵略戦争と中国の全面的抗日戦争」,2010,[[日中歴史共同研究]].</ref>。17日に[[松井石根]]大将を先頭にした中支那方面軍司令部が南京に入城し、18日に陸海軍合同慰霊祭が挙行された<ref>「支那事変写真全集 <中>」、朝日新聞、昭和13年発行{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。南京市内に残る中国兵の掃討も着実に進んでいた。22日、南京占領を追い風にした日本政府は、11月からの[[トラウトマン和平工作]]案に応じる姿勢を見せた蒋介石に対して、多額の賠償金と各都市への駐留権などを付け加えた新たな要求案を提示した。23日に南京自治委員会が設立され<ref>[[タイムズ|英国紙THE TIMES(タイムズ)]], Dec. 24 1937, Nanking's New Rulers/Autonomous Commission Set Up</ref><ref>“ブリタニカ国際年鑑 1938年版(Encyclopaedia Britannica Book of The Year 1938)”{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>市内の治安もだいぶ回復した。
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*1938年1月10日、日本海軍[[第三艦隊 (日本海軍)|第3艦隊]]が[[青島市|青島]]を攻略した<ref name="usu97to101">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p97-101</ref>。
*1月11日、第10師団が[[済寧]]を攻略した<ref name="usu97to101" />。日本軍は[[山東省 (中華民国)|山東省]]を占領し[[中華民国臨時政府 (北京)|中華民国臨時政府]]の管理下とした。
*2月7日、中ソ航空協定が締結され、ソ連は中国に3000万米ドルを借款供与した<ref name="usu90to92" />。また1937年9月から1941年6月にかけて航空機、戦闘車両、重火器、弾薬などが中国側に多数供与されている
 
1938年1月11日、日露戦争以来の[[御前会議]]が開かれ、支那事変処理根本方針が決定された。同時期に日本側の要求拡大吊り上げに再び態度を硬化させた蒋介石は和平交渉を改めて拒否した。これを受けて近衛内閣は16日に[[第一次近衛声明]]を発表し「国民政府を対手とせず」と宣言して日中和平工作は打ち切られた<ref name="osg310to312">大杉『日中15年戦争史』p310</ref>。2月14日に南京方面の戦力が再編され新しく[[中支那派遣軍]]が編制された<ref name="usu97to101" />。3月28日に南京を首府とし[[江蘇省 (中華民国)|江蘇省]]と[[浙江省 (中華民国)|浙江省]]を管理する傀儡政権の[[中華民国維新政府]]が樹立された。4月1日、日本政府は対中戦争完遂に向けた[[国家総動員法]]を公布し、戦時体制に突入した。
 
=== 徐州会戦と武漢攻略 ===