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前述の筑紫箏を基本として、楽器としての箏および箏曲の基礎を大成させたのが、江戸時代初期に活躍した[[八橋検校]](やつはし・けんぎょう、[[1614年]] - [[1685年]])であり、特に重要なのは、箏の調弦をそれまでの律音階から、当時民間で一般的になりつつあった都節音階にもとづくものに変えたことである。また多数の作曲をして、ここで現在の箏曲の基本形が整った(一説には、箏曲の基本形の一つである「段もの」と呼ばれるいわゆる変奏曲に類似した形式は、八橋検校が何らかの形で[[西洋音楽]]、特に[[チェンバロ]]の変奏曲に接触したことによって生まれたという)。独奏曲としての箏という楽器を代表する楽曲「六段」(の調べ)は、この八橋検校の作曲によると伝えられる。ちなみに「[[検校]](けんぎょう)」という言葉は当時の盲人音楽家が作る組合制度「[[当道座]]」の中で与えられる最高位の名前である。八橋検校の没年となった[[1685年]]は、西洋音楽における大きな存在である[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]や、[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]、[[ドメニコ・スカルラッティ]]の生年でもある。八橋検校の名は京都の菓子「[[八ツ橋]]」の名としても残っており、(生ではなく焼いた、本来の)八ツ橋の形は箏を模している。
 
八橋検校以降、江戸時代中期の特に重要な箏曲家としては、[[生田検校]]と[[山田検校]]が挙げられる。まず京都の生田検校が元禄頃、箏の楽器法(調弦および奏法や爪の改良)や楽曲を大きく発展させたといわれる。この流れが現在の[[生田流]]系諸派であるが、実際には当時上方にはいくつもの新流派が生まれ、それぞれ独自に爪の改良や楽曲の作曲を行なっていた。現在ではこれらをひっくるめて「生田流」と呼んでいる。生田検校は[[三味線]]([[地歌]])と箏を合奏させた功績が大きいと言われて来たが、これも実際には諸流派でも行なわれたらしい。それからしばらくの間、箏曲は上方を中心に栄えていたが、18世紀後半に山田検校が江戸で[[浄瑠璃]]風の歌ものを中心とした楽曲の作曲や楽器の改良を行い、[[山田流]]の始祖となった。山田流は江戸を中心に東日本に広まった。こうして幕末までには、西日本では生田流系が、東日本では山田流が盛んに行なわれていた。その他、八橋検校の直接の流れである八橋流が一部に伝えられていた。その他江戸時代の重要な箏曲家として、初期では八橋検校の弟子で生田検校の師匠である北島検校、中期では組歌の作曲で有名な三橋検校、安村検校、後期では京流[[手事物]]の[[地歌]]曲に複音楽的な箏の手付をした浦崎検校、[[八重崎検校]]、[[光崎検校]]、また幕末の[[吉沢検校]]らがいる。
 
また江戸時代において、箏は当道制度、つまり盲人音楽家の専売特許であったため、一般人がプロの職業として箏の演奏家になることは認められなかった。このため地歌以外の[[三味線]]音楽が歌舞伎や人形浄瑠璃などの視覚的要素を伴う伴奏音楽として発展したのに対し、箏曲は劇場とは関係のない純音楽として発展した。その中心となるものは箏の伴奏付き歌曲である「組歌」と、器楽独奏曲である「段物」であった。そして地歌に合奏することで、多くの地歌曲、ことに[[手事物]]をレパートリーとして、大いに発展した。また三味線音楽が遊里との結びつきも持っていて、どちらかといえば三味線が庶民の楽器として普及したのに対し、箏曲は王朝文学に取材したものが多いなど高雅な精神性を持ち、このため武家では「高尚な音楽」として、箏は武家の娘のたしなみ(アマチュア)としてもてはやされた。