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'''サン・ファン・バウティスタ号'''({{lang-es-short|San Juan Bautista}}<ref group="注釈">{{IPA-es|saŋ xwan bauˈtista}} '''サ'''ン・フ'''ワ'''ン・バウ'''ティー'''スタ</ref>)は、[[江戸時代]]初期に[[仙台藩]]で建造された[[ガレオン船]]である。仙台から[[スペイン]]や[[ローマ]]へ赴いた[[ルイス・ソテロ]]、[[支倉常長]]ら[[慶長遣欧使節]]の渡航の中で、[[太平洋]]の横断に使用された。
 
船名は「[[洗礼者ヨハネ|洗礼者・聖ヨハネ]]」の意で<ref name="サン・ファン・バウティスタとは">“[https://www.santjuan.or.jp/restore.html サン・ファン・バウティスタとは]”(サン・ファン館)2019年7月27日閲覧。</ref>、スペイン側の料に出てくるものである<ref name="宮城県の歴史162">『宮城県の歴史』162頁。</ref>。仙台藩の史料においては単に[[黒船]]と記述があり、固有の和名があったかどうかは不明である<ref name="宮城県の歴史162"/>。
 
== 建造から船出まで ==
[[Image:HasekuraWithShipDetail.jpg|thumb|250px|サン・ファン・バウティスタ号は1617年、ローマの支倉常長と共に描かれている;Claude Deruet画<br>ガレオン船の帆の先端に、支倉の旗(オレンジ色の旗に赤い[[鉤十字]])が見える]]
仙台藩の藩祖である[[伊達政宗]]は、江戸時代の[[慶長]]年間に、スペインの宣教師ルイス・ソテロや家臣の支倉常長を使節としてスペインおよびローマへ派遣した。これが慶長遣欧使節である。使節は、外国との貿易を実現するための交渉を目的としていた<ref>『宮城県の歴史』160-161頁。</ref>{{Refnest|group="注釈"|伊達政宗が使節を送った目的として、スペインや[[大久保長安]]と結んで倒幕を図っていたという説が明治時代から存在したが<ref>箕作元八「伊達政宗羅馬遣使の目的」『史学界』三の十一、1901年や、阿部秀助「大久保長安と伊達政宗」『史学界』五の一、1903年。</ref><ref>大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』中央公論新社、1999年など。</ref>、これには批判もある<ref>小林清治『伊達政宗の研究』吉川弘文館、2008年、 239-242頁</ref>。『伊達貞山治家記録』によれば、政宗船の建造に関して将軍[[徳川秀忠|秀忠]]付きの船手頭[[向井忠勝]]から御内衆や公儀大工が派遣されており、『政宗君記録引証記』では忠勝から家人に日本商品二、三百梱が託され、航海安全を祈る書状及び祈祷札が届けられており、また将軍秀忠が政宗船の僚船として建造させた船が江戸湾口で座礁した事実、さらに秀忠から政宗に種々の土産が送られ船頭が添えられた(『古談筆乗』)などの事実をみれば、政宗の遣欧船は幕府の知るところであったとする意見もある<ref>鈴木かほる『徳川家康のスペイン外交―向井将監と三浦按針―』新人物往来社 2010年 150頁以下</ref>。}}。慶長遣欧使節が日本を出発したのは1613年10月(慶長18年9月)だが、これ以前の1611年(慶長16年)には海外貿易や造船の構想がすでにあったらしい<ref>{{Refnest|group="注釈"|スペインの探検家セバスティアン・ビスカイノが藩の重臣から聞かされたという<ref name="慶長遣欧使節関連年表">“[https://www.santjuan.or.jp/history.html 慶長遣欧使節関連年表]”(サン・ファン館)2019年7月27日閲覧。</ref>。}}
 
この計画のため、1613年(慶長18年)にサン・ファン・バウティスタ号が建造された。建造地は仙台藩領内の[[桃生郡]]水浜<ref group="注釈">現在の[[宮城県]][[石巻市]][[雄勝町 (宮城県)|雄勝町]]水浜({{ウィキ座標|38|30|8.8|N|141|29|12.7|E|region:JP|地図|name=水浜(サン・ファン・バウティスタ号の建造地)}})にあたる</ref>である<ref>[http://blog.datebusyou.jp/article/231106102.html 空の慶長遣欧使節航海記](仙台市「奥州・仙台おもてなし集団 [[伊達武将隊]]」ブログ 2011年10月19日)</ref>。慶長慶長遣欧使節に同行したシピオーネ・アマチによれば、サン・ファン・バウティスタ号の建造には大工800人、鍛冶700人、雑役3000人が関わり、45日を要したという<ref name="サン・ファン・バウティスタとは"/>。進水後、この船は海上約50キロメートルを[[牡鹿郡]]月浦<ref group="注釈">現在の宮城県石巻市月浦({{ウィキ座標|38|22|55.7|N|141|25|39.8|E|region:JP|地図|name=月の浦(サン・ファン・バウティスタ号の出航地)}})</ref>(つきのうら)へ回航され、最終的な艤装を施された。そして、慶長遣欧使節のルイス・ソテロ、支倉常長らを乗せて出帆することになる。また、日本を訪れ、帰国中に乗っていた船が大破した[[セバスティアン・ビスカイノ]]もこれに同乗することになった。
 
== 航海 ==
[[ファイル:Hasekura Travels.jpg|サムネイル|250px|支倉常長の旅路と年号。このうち太平洋航海の往復航路当船サン・ファン・バウティスタ号によるもの。]]
[[ファイル:NicolasCardona1632.jpg|サムネイル|250px|スペインで1632年に刊行された本のアカプルコ湾に、日本の船が描かれており(図中のDの船)、1614年-1615年に停泊していたサン・ファン・バウティスタ号でないかと見られている。]]
[[File:San Juan Batista.jpg|thumb|320px|支倉常長がローマ教皇に謁見したときの絵。サン・ファン・バウティスタ号が左側に描かれている。]]
 
=== 第一回航海 ===
1613年10月28日(慶長18年9月15日)、サン・ファン・バウティスタ号は当時[[ヌエバ・エスパーニャ|ノビスパン]](新イスパニア)と呼ばれていた[[メキシコ]]の[[アカプルコ]]を目指して、月浦から出航した。将軍下の侍10名、仙台の侍12名、日本人商人、水夫、家来120名、イスパニア人や[[ポルトガル]]人40名など、180名が船の乗員となった。航海には[[アンドレス・デ・ウルダネータ]]が1565年に開拓し[[マニラ・ガレオン]]が用いていたウルダネータの航路が使われた。サンフランシスコ号乗組員の、船長ベニト・デ・パラシオ、水先案内人ロレンソ・パスケスらのイスパニア人航海士や水夫が操船を行い、日本人水夫等はその下働きで操船術を体験した。船は[[北太平洋海流]]に乗って東進し、12月26日に北アメリカの[[メンドシノ岬]](北緯40度26分[[サンフランシスコ]]の北方300キロメートル)を視認し、ここから[[カリフォルニア海流]]に乗って南下し、1614年1月25日(慶長18年12月16日)、3ヶ月の航海でアカプルコに到着した。当時は[[パナマ運河]]がないため、支倉とソテロは陸路でメキシコ市を経由して大西洋側に移動して別船にて[[ヨーロッパ]]へ向かった。
 
サン・ファン・バウティスタ号は1年3ヶ月の停泊後、1615年4月28日(慶長20年4月1日)、スペイン国王使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ神父、{{要出典範囲|date=2017年1月|仙台地域の[[鉱山]]産業の発展の為に約50人の鉱山業・[[銀]]精製業の専門家を乗せてアカプルコを出航した}}。船はマニラ・ガレオンが用いていた[[北赤道海流]]に乗って[[フィリピン]]東方に達し、ここから[[黒潮]]に乗って北上し1615年8月15日(慶長20年[[閏]]6月21日)3ヶ月半の航海で浦賀に到着した。
 
=== 第二回航海 ===
1616年9月30日(元和2年6月20日)、ルイス・ソテロの要求でサン・ファン・バウティスタ号は再びアカプルコを目指し、[[横澤吉久]]を船長として浦賀を出航した。スペイン国王使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ神父らスペイン人10人、[[向井忠勝]]派遣の船頭ら日本人200人が同乗した。その航海中に悪天候他で船頭を含む約100名の水夫が亡くなった。1617年2月23日(元和3年1月18日)にカリフォルニアのロス・モリネスに到着した。その後、アカプルコへ航行した。
 
ヨーロッパから戻ったソテロと支倉は日本へ帰る為にメキシコで再会し、彼らを乗せたサン・ファン・バウティスタ号は1618年4月2日(元和4年3月7日)に横澤吉久指揮の元でアカプルコを出航した。一行は1618年8月10日(元和4年6月20日)にルソン(今のフィリピン)のマニラに到着したが、そこでサン・ファン・バウティスタ号は[[オランダ]]への防衛を固めていたスペスパニアへ売却された。
 
=== その後 ===
サン・ファン・バウティスタ号のその後は不明であり、パニアペイン戦艦としてミンダナオ島方面へ向かったなど複数の説がある。2018年には[[アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史|アメリカの奴隷史]]研究を行う『Project 1619<ref>[http://www.project1619.org/ Project 1619 Inc.]</ref>』に参加している歴史家の調査により、[[奴隷貿易]]に関わっていたという説が提唱された<ref>[https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201811/20181126_13022.html サン・ファン号、奴隷運ぶ? マニラで売却後の足跡に新説 米の歴史家提唱 ] - [[河北新報]]</ref>。
 
支倉以下使節団は約2年のマニラ滞在後、別の船で、1620年8月下旬、長崎へ到着。1620年9月20日(元和6年8月24日)、丸7年振りに仙台へ帰国した。一行が帰還した時、日本の情勢は出発前のそれと大きく変化しており、キリシタン弾圧が始まるなど、[[鎖国]]に向かっていた。これらの情勢の変化により、使節の目的だった外国との貿易協定も実現しなかった。支倉常長は帰国後まもなく病死し、ソテロは日本に密入国したために処刑され殉教した<ref name="慶長遣欧使節関連年表"/>
 
航海と訪欧の記録については、航海日誌を筆頭に全て帰国前に廃棄されており、日本側に支倉使節団とサン・ファン・バウティスタ号の航海に関する公的記録文書は残らなかった。バチカンの教皇庁宝物館には、伊達政宗が「奥州王」の名で送った親書が今も保管されている。この伊達政宗親書や、支倉常長がローマやイスパニア、フィリピンなどから持ち帰った品々などが[[仙台市博物館]]に保管・展示されており、それらの慶長遣欧使節資料はのちに、歴史資料としては日本で初めて[[国宝]]に指定された。
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1990年(平成2年)、サン・ファン・バウティスタ号の復元に向けて、宮城県内で県民運動が起こった<ref name="サン・ファン・バウティスタとは"/>。サン・ファン・バウティスタ号の正確な[[設計図]]は残っていなかったが、仙台藩の史料『[[伊達治家記録]]』にサン・ファン・バウティスタ号の規模や帆柱について記録があり、これをもとに現代の造船工学でシミュレーションを行うことで、船の復元が行われることになった。この際に問題になったのが、史料の中の「一[[間]]」の実寸である。一間の長さは時代や地域により変遷があり、単純には長さを決められなかった。史料に現れる一間は仙台藩の尺貫法によるものと判断され、一間6尺5寸として計算された<ref name="宮城県の歴史162"/>。これにより復元船の規模は、全長55.35メートル、全幅11.25メートル、吃水約3.8メートルとなった<ref name="サン・ファン・バウティスタとは"/>。
 
[[1992年]](平成4年)[[4)4月17日]]に起工式が執り行われ、[[宮城県]][[石巻市]][[中瀬 (石巻市)|中瀬]]の[[造船所]]<ref group="注釈">跡地は[[石ノ森萬画館]]({{ウィキ座標|38|25|46.5|N|141|18|38.7|E|region:JP|地図|name=サン・ファン・バウティスタ号の復元が行われた造船所(跡地は[[石ノ森萬画館]])}})</ref>で復元船の建造が始まった<ref>[http://www.suntory.co.jp/sfnd/prize_cca/detail/1994t1.html 伊達政宗の慶長遣欧使節団が航海した木造洋式帆船を復元]([[サントリー]]「サントリー地域文化賞」)</ref>復元船の[[進水式]]は出帆380周年にあたる<ref>[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1993/00526/mokuji.htm 慶長遣欧使節船「サン・ファン・バウティスタ号」復元]([[日本財団]])</ref>[[1993年]]([[平成]]5年)[[5)5月22日]]に行われた<ref name="MiyagiHistorySS">[http://www.pref.miyagi.jp/kankou/administration/course.htm 宮城県観光のあゆみ](宮城県)</ref>。同年[[10月9日]]から[[11月7日]]まで慶長遣欧使節完成記念する「サン・ファン・バウティスタ号フェスティバル」が開催され、復元船は[[石巻漁港|石巻新漁港]]に仮係留されて一般公開された後、[[1996年]](平成8年)[[8)8月10日]]に石巻市[[渡波 町|渡波]]<ref>[http://www.pref.miyagi.jp/et-sgsin/Suigyo/port/watanoha.htm 渡波漁港](宮城県)</ref>に開館した[[テーマパーク]]「[[宮城県慶長使節船ミュージアム]]」(サン・ファン館。{{ウィキ座標|38|24|28.5|N|141|22|8.7|E|region:JP|地図|name=宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン・バウティスタ号の復元船係留地)}})に係留、展示された<ref name="MiyagiHistorySS"/>。復元費用は約17億円だった<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0304/NGY201303040017.html?ref=rss 一本松に続け、政宗の遣欧船よ再び 愛知の会社が修復]([[朝日新聞]] 2013年3月5日)</ref>。
 
[[2011年]](平成23年)[[3)3月11日]]、[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])に伴うでは、押し寄せた[[津波]]が何度も渡波漁港に押し寄せ、復元船の周囲を囲むように建つドック棟を呑み込み、建物を破壊して展示物の多く流失する被害を受けさせた<ref name="SJBblog20110508">[http://santjuan.exblog.jp/15484066/ 復元船・館内の状況について①](「サン・ファン館のブログ」2011年5月8日)</ref><ref name="kahoku20120419">[http://www.kahoku.co.jp/news/2012/04/20120419t13018.htm 「サン・ファン館」復旧着手へ、展示内容を大幅見直し 石巻]([[河北新報]] 2012年4月19日)</ref>。このとき復元船は津波を乗り越えたため外板の一部破損で済んだが、同年[[4月27日]]深夜から翌[[4月28日|28日]]早朝にかけての暴風<ref>[http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/10min_s1.php?prec_no=34&prec_ch=%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C&block_no=47592&block_ch=%E7%9F%B3%E5%B7%BB&year=2011&month=4&day=27&elm=minutes&view= 石巻 2011年4月27日]([[気象庁]])</ref><ref>[http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/10min_s1.php?prec_no=34&prec_ch=%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C&block_no=47592&block_ch=%E7%9F%B3%E5%B7%BB&year=2011&month=4&day=28&elm=minutes&view= 石巻 2011年4月28日](気象庁)</ref>により、3本ある[[マスト]]のうち28メートルのフォアマストが根元から折れ、真ん中にある32メートルのメインマストが上部3分の1ほどから折れた<ref name="SJBblog20110508"/><ref name="SJBblog20111222">[http://santjuan.exblog.jp/17417281/ 復元船・館内の状況について②](「サン・ファン館のブログ」2011年12月22日)</ref><ref name="kahoku20120512">[http://www.kahoku.co.jp/news/2012/05/20120512t11014.htm マスト用木材寄贈へ サン・ファン号 年度内復旧目指す](河北新報 2012年5月12日)</ref>。宮城県は、2011年度[[補正予算]]でドック棟の復旧費に3億5800万円、復元船の修復費に2億1200万円を計上し、[[2012年]](平成24年)度中の工事終了を目指す復旧修復が行われた<ref name="kahoku20120419"/>。修復にあたり、フォアマスト用の10メートルから15メートルの[[ベイマツ]]4本およびメインマスト用の14メートルの[[スギ]]1本が、[[カナダ]][[ブリティッシュコロンビア州]]の製材会社ウェスタン・フォレスト・プロダクツ社から寄贈された<ref name="kahoku20120512"/>。サン・ファン・バウティスタ号や施設の修復は2013年(平成25年)に完了し、サン・ファン館は同年11月に再オープンした<Ref>[http://santjuan.exblog.jp/21399892/ 宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)再開館のお知らせ] - サン・ファン館のブログ(2013年11月3日)</ref>{{Refnest|group="注釈"|この年は、慶長遣欧使節が日本を出立してちょうど400年後に当たり、これを記念した宮城県による『東日本大震災復興「慶長使節400年記念事業」』が2015年(平成27年)にかけて行われた<ref>[http://www.pref.miyagi.jp/soshiki/syoubun/keicho-mission-400.html 慶長遣欧使節出帆400年記念事業実行委員会] - 宮城県庁ウェブサイト</ref>。}}
 
2016年(平成28年)の調査で東日本大震災の津波によりの影響で船体が歪んでいることが判り、主要な部材やマストの腐食が進行しているため寿命は5年ほどとされ、2017年(平成29年)3月から乗船は禁止されている<ref>[https://mainichi.jp/articles/20161126/ddl/k04/040/188000c サン・ファン・バウティスタ号:解体へ 有識者委提言「存続20年まで」 /宮城 - 毎日新聞]</ref>。今後についてオリンピックが開催される2020年(令和2年)まで現状を維持し、その後に解体するプランが有力視されている。復興途上である宮城県では新造船の予算を確保するのは難しく、[[クラウドファンディング]]なども検討している。また修理しようにも船大工の高齢化で国内での修理は不可能とされる<ref>[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201704/20170426_13039.html <サン・ファン号>館長「日本に補修技術ない」] - [[河北新報]]オンラインニュース</ref>。
[[1611年]][[12月2日]](慶長16年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]])に発生した[[慶長三陸地震]]・津波から2年後の[[1613年]]に月の浦からサン・ファン・バウティスタ号が出帆し、[[1615年]]にスペイン国王やローマ教皇に謁見したことから、その400年後にあたる2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)に伴う津波により被災したサン・ファン館およびサン・ファン・バウティスタ号復元船を復旧・修復し、[[2013年]](平成25年)から[[2015年]](平成27年)まで『東日本大震災復興「慶長使節400年記念事業」』が実施された<ref>[http://www.pref.miyagi.jp/soshiki/syoubun/keicho-mission-400.html 慶長遣欧使節出帆400年記念事業実行委員会] - 宮城県庁ウェブサイト</ref>。サン・ファン・バウティスタ号や施設の修復は2013年に完了し、サン・ファン館は2013年11月、震災以来2年8ヶ月ぶりに再オープンした<Ref>[http://santjuan.exblog.jp/21399892/ 宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)再開館のお知らせ] - サン・ファン館のブログ(2013年11月3日)</ref>。
 
2016年(平成28年)の調査では東日本大震災の津波により船体が歪んでいることや、主要な部材やマストの腐食が進行しているため寿命は5年ほどとされ、2017年(平成29年)3月から乗船は禁止されている<ref>[https://mainichi.jp/articles/20161126/ddl/k04/040/188000c サン・ファン・バウティスタ号:解体へ 有識者委提言「存続20年まで」 /宮城 - 毎日新聞]</ref>。今後はオリンピックが開催される2020年(令和2年)まで現状を維持し、その後に解体するプランが有力視されている。復興途上である宮城県では新造船の予算を確保するのは難しく、[[クラウドファンディング]]なども検討している。また修理しようにも船大工の高齢化で国内での修理は不可能とされる<ref>[http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201704/20170426_13039.html <サン・ファン号>館長「日本に補修技術ない」] - [[河北新報]]オンラインニュース</ref>。
 
==脚注==
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== 外部リンク ==
* [http://www.santjuan.or.jp/index.html 宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン パーク/ サン・ファン館)]
<!-- リンク切れ * [http://www.city.ishinomaki.lg.jp/shokokanko/sangyou_kankou/kankousisetu/tukinoura.jsp 月浦(つきのうら)](石巻市)-->
* [http://ci.nii.ac.jp/search?q=%E6%85%B6%E9%95%B7%E9%81%A3%E6%AC%A7%E4%BD%BF%E7%AF%80%E8%88%B9&range=1&count=20&sortorder=1&type=0 16世紀17世紀の帆船: 慶長遣欧使節船の復元に因んで] 寶田直之助、日本造船学会誌