「日中戦争」の版間の差分

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*2月7日、中ソ航空協定が締結され、ソ連は中国に3000万米ドルを借款供与した<ref name="usu90to92" />。
 
1938年1月11日、日露戦争以来の[[御前会議]]が開かれ、支那事変処理根本方針が決定された。日本側の要求吊り上げに再び態度を硬化させた蒋介石は和平交渉を改めて拒否したので、これを受けた近衛内閣は16日に[[第一次近衛声明]]を発表し「国民政府を対手とせず」と宣言して対中和平工作は打ち切られた<ref name="osg310to312">大杉『日中15年戦争史』p310</ref>。2月14日に南京方面の戦力が再編され新しく[[中支那派遣軍]]が編制された<ref name="usu97to101" />。2月18日から蒋介石が立て篭もった首都重慶を戦略爆撃する[[重慶爆撃]]が開始された。3月28日に南京を首府とし[[江蘇省 (中華民国)|江蘇省]]と[[浙江省 (中華民国)|浙江省]]を管理する傀儡政権の[[中華民国維新政府]]が樹立された。4月1日、日本政府は対中戦争完遂に向けた[[国家総動員法]]を公布し、戦時体制に突入した。
 
=== 徐州会戦と武漢攻略 ===
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6月15日、[[御前会議]]の中で中国軍の最要地[[武漢市|武漢]]と貿易の要港[[広州市|広州]]の攻略が決定された<ref name="usu97to101" />。この両都市は[[援蒋ルート]](英米露からの補給線)の拠点でもあった。18日から武漢攻略の準備が進められ、7月4日にその作戦を担う[[中支那派遣軍]]が大幅に増強された<ref name="usu97to101" />。7月29日から[[満州国]]南東端にある張鼓峰付近でソ連軍との国境紛争が勃発したが、8月10日に停戦が合意されてひとまず解決した([[張鼓峰事件]])。8月22日、[[武漢作戦]]が発動され中支那派遣軍は総兵力35万を以って[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]に侵攻した<ref name="usu102to110">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p102-110</ref>。湖北省一帯には蒋介石が指導する[[抗日戦争第5戦区|第5戦区]]と[[抗日戦争第9戦区|第9戦区]]の総勢110万の戦力が展開されており、こうして火蓋が切られた[[武漢会戦]]は日中戦争最大規模の戦いとなって10月下旬まで攻防が続いた。同時期に{{仮リンク|広州作戦|zh|廣州戰役 (1938年)|label=}}も開始され、[[第21軍 (日本軍)|第21軍]]と[[第五艦隊 (日本海軍)|第5艦隊]]が陸海共同して10月21日に[[広州市|広州]]を占領した<ref name="usu102to110" />。10月27日、中支那派遣軍は武漢三鎮([[武昌区|武昌]]、[[漢口]]、[[漢陽区|漢陽]])を占領して武漢作戦を完遂し<ref name="usu102to110" />同時に[[援蒋ルート]]も遮断した。蒋介石は首都重慶に逃れた<ref name="usu124to135" />。
 
11月3日、武漢と広州の占領で蒋介石の戦意を挫けるという楽観的見通しを立てていた[[近衛文麿|近衛首相]]は[[第二次近衛声明]]を発表し、[[重慶市|重慶]]の[[国民政府]]に[[東亜新秩序]]への参加を呼びかけて実質的な停戦降服を促した。国民政府内では日中講和を唱える[[汪兆銘]]と蒋介石の路線対立が顕著となった。12日、[[湖北省 (中華民国)|湖北省]](武漢)の次の侵攻先と見なされた[[湖南省 (中華民国)|湖南省]]で再び[[清野作戦]]が実行され、省都[[長沙市|長沙]]は中国軍の手による大火災に包まれて消滅した([[長沙大火]])。また中国側はイギリスの協力で11月中に英領[[ビルマ]]から[[雲南省 (中華民国)|雲南省]]-[[四川省 (中華民国)|四川省]]-重慶へと繋がる新たな[[援蒋ルート]](ビルマルート)を確立していた。首都重慶は山岳地帯に囲まれた天然の要害であり、日本軍の圧倒的戦力を以ってしても攻略は困難であったので、武漢占領が作戦の頂点であると同時に限界となった。20日、日中講和に向けた事前密約の日華協議記録が成立し、その内容には日華防共協定、満州国承認、日本軍の二年以内撤退などが盛り込まれていた<ref name="usu111to117">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p111-117</ref>。
 
12月6日、新たに決定された対支処理方策の中で、日本軍はこれ以上の占領地拡大を望まず現状地域の安定確保に努め、抗日拠点の掃討戦のみを行なう旨が確認された<ref name="usu102to110" />。16日、中国大陸に広がった占領地運営の為の国家機関[[興亜院]]が設立された<ref name="usu102to110" />。18日、蒋介石と対立する[[汪兆銘]]が重慶を脱出し[[昆明市|昆明]]から仏領[[ハノイ]]に向かった<ref name="usu111to117" />。22日、近衛首相が第三次近衛声明の中で[[近衛三原則]]を発表した。それは日華協議記録の内容をなぞっていたが、肝心の日本軍が二年以内に撤退する条項が削除されており、梯子を外される形となった汪兆銘は面目を望した。蒋介石は近衛声明を一蹴した上で、汪兆銘のハノイ行きは療養目的であったと26日に発表し<ref name="usu119to123">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p119-123</ref>彼の路線修正と帰参を暗に促した。また28日にも[[東亜新秩序]]は中国の奴隷化を企図したものだと日本を非難しアメリカもそれに同調した<ref name="usu102to110" />。しかし汪兆銘は国民党内に向けた29日の通電で「和平反共建国」を唱えて日中講和の必要性を力説し、30日の香港『南華日報』紙上でも近衛声明を受け入れた講和交渉に入るべきと論説したので<ref name="usu119to123" />、年が明けた1939年1月1日に中国国民党は汪兆銘の党籍を永久に剥奪した<ref name="usu119to123" />。戦争収拾に失敗し中国政策も手詰まりとなった[[近衛文麿]]は1月4日に内閣総辞職し、[[平沼内閣]]に交代した<ref name="usu102to110" />。
 
=== 戦争の泥沼化 ===
1939年1月時点の日本軍の勢力圏は部分占領も含めると、[[察哈爾省|チャハル]]・[[綏遠省|綏遠]]・[[河北省 (中華民国)|河北]]・[[山西省 (中華民国)|山西]]・[[山東省 (中華民国)|山東]]・[[河南省 (中華民国)|河南]]・[[江蘇省 (中華民国)|江蘇]]・[[浙江省 (中華民国)|浙江]]・[[福建省 (中華民国)|福建]]・[[広東省 (中華民国)|広東]]・[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]まで拡大していた。しかし、攻略困難な天然の要害の[[重慶市|重慶]]に立て篭もった蒋介石はなおも抗戦を断念しなかった為に、戦争解決の糸口を見失った日本政府はついにここで手詰まりの状態に陥となて、た。日中戦争は長期化の様相を呈した日中戦争はやがて泥沼化した<ref name="usu111to117" />。残された手段は、占領地周辺の抗日拠点を逐次掃討しつつ、[[重慶爆撃]]を繰り返して<ref name="usu124to135" />国民党の戦意を削ぎ、[[援蒋ルート]](英米露からの補給線)を遮断して中国軍の物資枯渇を目指す位だった。同時に水面下で国民党関係者と接触を図り再交渉の機会設ける掴む試みも行なわれていた。1939年の日本軍の主な活動内容は、武漢維持の為の[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]一帯の鎮圧戦、[[仏印]]ルート([[援蒋ルート]])遮断の為の[[広西省]]の攻略戦、南京方面を脅かすゲリラ戦の根拠地となった[[江西省 (中華民国)|江西省]]の掃討戦であった。
 
* 2月10日 - 日本海軍[[第五艦隊 (日本海軍)|第5艦隊]]が[[海南島]]を攻略した。
*3月21日 - 仏領ハノイで[[汪兆銘]]の暗殺未遂事件が発生し曽仲鳴が身代わりとなった<ref name="usu119to123" />。首謀者は[[藍衣社]]または[[中華民国国防部軍事情報局|軍統]]局長の[[戴笠]]だった
*3月27日 - [[中支那派遣軍]]隷下の[[第11軍 (日本軍)|第11軍]]が南昌作戦を開始し、5月9日に[[江西省 (中華民国)|江西省]]の[[南昌市|南昌]]を攻略した。
*4月25日 - 日本側が汪兆銘をハノイから脱出させ、5月6日に上海に到着し間もなく来日した。
*5月1~201日 - [[湖北省 (中華民国)|湖北省]]で中国軍が反撃に打って出た[[襄東作戦|襄東会戦]]が発生。20日に日本軍は中国軍の反攻を撃退した。
*5月3~43日 - [[重慶爆撃]]によって外国人を含む3991人の死者が出た。その後も10月まで爆撃は続けられた<ref name="usu124to135" />。
 
* 5月7日 - [[日独伊防共協定]]をソ連以外の英仏をも対象にした軍事同盟にするというドイツからの提案が五相会議の中検討され、[[板垣征四郎|板垣陸相]]が中国を援す那事変解決にも有益であソ連英国を牽制する為に日独伊軍事同盟の必要性を説い賛成した<ref name="usu111to117" />。[[平沼騏一郎|平沼首相]]もドイツとの関係強化で共産主義対抗する方針を取前向きだった。
* 5月11日 - [[ノモンハン事件]]が発生し関東軍とソ連軍が武力衝突した。
*6月 - 平沼内閣が汪兆銘を中心とする中国新政府樹立方針を採択し汪工作指導要綱を発表した。その中で前年11月30日の日支新関係調整方針を和平条件とした<ref name="usu119to123" />。
* 6月13日 - ソ連が中国側に1億5000万米ドルを借款供与した。
*6月14日 - 日本軍が[[中華民国臨時政府 (北京)|中華民国臨時政府]]要人暗殺テロ犯の引渡しを拒否した天津のイギリス[[租界]]を一時封鎖した。7月15日の[[有田八郎|有田]]・クレーギー会談でイギリス側が引渡し要求を呑み一応の解決がなされた<ref name="usu111to117" />。
*7月26日 - アメリカが[[日米通商航海条約]]の廃を突然破を通告し日本政府は衝撃を受けた<ref name="usu111to117" />。この件を巡って11月からグルー駐日大使との交渉が始まるが、12月22日にアメリカは日本軍が中国大陸で全面的な貿易・為替・通貨制限を行っている以上協定継続は不可能とする最終回答を出した<ref name="usu111to117" />。
 
* 8月23日 - [[独ソ不可侵条約]]が締結された。これに驚いた[[平沼騏一郎|平沼首相]]は「欧州の天地は複雑怪奇」と内閣総辞職し、[[阿部信行]]内閣に代わった<ref name="usu111to117" />。
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* 12月25日 - [[桂林市|桂林]]で[[鹿地亘]]らが[[日本人民反戦同盟]]を結成。
 
1939年56汪兆銘は来から、し、1939年6月に平沼内閣は本と協調する中国新政府樹立方針、汪工作指導要綱を発表、前年[[11月30日]]日支新関係調整方針意思和平条件とし固め<ref name="usu119to123" />。その後、汪兆銘は中国の各地方政府を周り、意向を打診、11月1日、上海で日本と交渉するが、日本の蒙疆、華北に防共駐屯、南京、上海、杭州にも駐屯、揚子江沿岸特定地点にも艦船部隊駐屯提案に対して汪側は太原〜石家荘〜[[滄州市|滄州]]のライン以北に限定するよう日本側に大きく譲歩したうえで要求するが、日本側は山東省を加えるよう要求した<ref name="usu119to123" />。12月30日、日華新関係調整要綱が成立<ref name="usu119to123" />。1940年1月、阿部内閣から米内内閣に変わった<ref name="usu111to117" />。1月6日、汪兆銘の腹心高宗武らが上海を脱出し、香港で日本の講和条件を暴露し、汪兆銘は傀儡と訴えた<ref name="usu119to123" />。これによって蒋介石の支持層が拡大した<ref name="usu119to123" />。
 
* [[1月]]下旬 - 日本軍、[[賓陽作戦]]。