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1967年、山西省の奪権に参加し大規模な戦闘を展開。第九回党大会代表、中央委員会委員となる。1973年、第十回党大会では[[林彪]]一派が抜けた中央政治局入りを果たす。
 
1975年、第四期全人代で国務院副総理(全部で12人)、山西省革命委員会副主任(副省長クラス)に就任し全国の調査に出るが、大寨での経験のみに基づいて他地区の農地を批判をするなど臨機応変に乏しかった。[[鄧小平]]が「実践は真理を検証する唯一の基準である」を提唱すると1980年に副総理を辞任し、北京東郊農場の顧問に降格された。実質的に軟禁状態に置かれていたという。
 
1986年3月26日死去。その遺灰は大寨に戻された。最期まで毛沢東を敬愛して止まなかったとされる。