「アリー・ハーメネイー」の版間の差分

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せすじ (会話 | 投稿記録)
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小学校卒業後、父に秘密で中学校に通った。その後の勉学は、まず[[マシュハド]]の[[王立神学校]]でイスラーム諸学、特に[[アラビア語]]に向けられた。[[1958年]]に[[イラク]]の[[ナジャフ]]に赴き、2年間神学を学んだ。その後、[[ゴム (イラン)|ゴム]]市に赴き、[[ルーホッラー・ホメイニー|ホメイニー]]のもとで[[1964年]]までイスラーム法学を学んだ。
 
ハーメネイーは、[[ルーホッラー・ホメイニー]]の弟子かつ重要な同志であり、現在では大アーヤトッラーの称号を持つが、彼は最高指導者の地位につくまでは法学者として最高の位階にあったわけではないため(後述)、現在でも法学権威(模倣の源泉、[[アーヤトッラー|マルジャエ・タクリード]])として最良であると見なされているわけではない<ref name=":0">{{Cite web|url=https://www.asafas.kyoto-u.ac.jp/dl/publications/no_1001/AA101_2_KURODA.pdf|title=ハーメネイー体制下における法学権威と学知システムの変容 ―国家による宗教制度への政治的影響力をめぐる考察―|accessdate=2019-0508-1201|publisher=京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 (ASAFAS)|pages=2821-3122}}</ref>。
 
ハーメネイーは、[[イスラーム法]]の広い知識を有しているが、ゴム市の一部の活動家は、彼の権威を認めていない。この事実は、現政権の指導者の多くがゴム市の宗教学校出身であるのに対して、ハーメネイーは[[マシュハド]]市で宗教教育を受けたことに一因がある。
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2千万人以上の国民が選出したハータミーの勝利は、ハーメネイーに自分の立場の再検討を余儀なくさせた。彼は、新大統領の方針が客観的に社会の要求に応えているとの結論を下した。保守派の宗教・政治運動支持者中には、国民中の人気の急激な低下によって引き起こされた重大な見解の相違が生じた。若干の権威ある宗教活動家、学生及びイスラム革命防衛隊の代表は、過激な保守派の政策に不満を示した。
 
[[1994年]]12月、[[マルジャエ・タクリード|マルジャエ・タクリード(大アーヤトッラー)]]であるモハンマド・アリ・アラキーが死去したのち、[[専門家会議 (イラン)]]はハーメネイーを[[マルジャエ・タクリード]]として認めると宣言した。モハンマド・シーラーズィ、ホセイン・アリー・モンタゼリー、ハサン・タバータバーイー・ゴミーなど、何人かの反体制派およびイラン国外の大アーヤトッラー・アーヤトッラー達はハーメネイーを大アーヤトッラーとして認めることを拒否した。
 
また、政治経験は豊富であっても、法学における業績が乏しいハーメネイーを大アーヤトッラーとして認める慣例に反した決定にはイラン国内からの反発も強く、 ハーメネイーはみずから、12月18日には、イラン国内におけるマルジャエ・タクリードとしての役割を辞退する声明を発表した<ref name=":0" />。
 
[[1999年]]後半、情報省職員による改革派政治家の暗殺が暴露されたが、その組織者の中には、ハーメネイーが信任する情報省次官もいた。1999年中盤までに、国内情勢は、危機的状況にまで悪化した。ハーメネイーは、ハータミー等と協議し、左派・右派を問わず過激派の出現を許さないことに決めた。彼は、法治主義、並びに憲法で規定された権利と自由の保障を志向した政府の方針への同意を表明した。