「日中戦争」の版間の差分

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* 5月26日 - 内閣改造が行なわれ対中強硬派の[[板垣征四郎]]が陸軍大臣、[[東条英機]]が陸軍次官となった<ref name="usu97to101"/>。一方で和平派の[[宇垣一成]]外務大臣は日中講和を断念せず 、香港領事と[[孔祥熙]]の秘書の間での水面下交渉を9月まで進行させた<ref name="usu97to101"/>。
 
6月6日、 中国軍を西へ追撃する[[中支那派遣軍]]と[[北支那方面軍]]はそのまま[[河南省 (中華民国)|河南省]]に侵入し[[開封市|開封]]と[[鄭州市|鄭州]]を占領した。[[鄭州市|鄭州]]は各都市への中継点となる交通の最要地であり、ここの確保は[[武漢市|武漢]]や[[西安市|西安]]への迅速な侵攻を可能にした。徐州会戦の敗色でこの事態を予測していた中国軍は、5月下旬から鄭州一帯を水没させて日本軍の行動を抑止する為の黄河決壊準備を進めていた。6月9日に堤防が爆破され黄河から溢れ出した濁流は、[[河南省 (中華民国)|河南省]]の広範囲だけでなく[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]北部と[[江蘇省 (中華民国)|江蘇省]]北西部をも呑みこみ、総計3000平方kmの土地を押し流して数十万人の住民犠牲者を出した([[黄河決壊事件]])<ref name="isikawa188" />。この未曾有の環境破壊により黄河下流域ではその後10年に渡って河川環境変化に伴う水害、[[蝗害]]、凶作、飢饉に悩まされる事になったが、それと引き換えの成果は日本軍に[[抗日戦争第1戦区|第1戦区]]軍の追撃を断念させたのと武漢侵攻を二ヶ月程遅らせたに過ぎなかった。
 
6月15日、[[御前会議]]の中で中国軍の最要地[[武漢市|武漢]]と貿易の要港[[広州市|広州]]の攻略が決定された<ref name="usu97to101" />。この両都市は[[援蒋ルート]](英米露からの補給線)の拠点でもあった。18日から武漢攻略の準備が進められ、7月4日にその作戦を担う[[中支那派遣軍]]が大幅に増強された<ref name="usu97to101" />。7月29日から[[満州国]]南東端にある張鼓峰付近でソ連軍との国境紛争が勃発したが、8月10日に停戦が合意されてひとまず解決した([[張鼓峰事件]])。8月22日、[[武漢作戦]]が発動され中支那派遣軍は総兵力35万を以って通り道となる[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]を制した後に[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]へ侵攻した<ref name="usu102to110">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p102-110</ref>。湖北省一帯には蒋介石が指導する[[抗日戦争第5戦区|第5戦区]]と[[抗日戦争第9戦区|第9戦区]]の総勢110万の戦力が展開されていた。こうして火蓋が切られた[[武漢会戦]]は日中戦争最大規模の戦いとなって10月下旬まで攻防が続いた。同時期に{{仮リンク|広州作戦|zh|廣州戰役 (1938年)|label=}}も開始され、[[第21軍 (日本軍)|第21軍]]と[[第五艦隊 (日本海軍)|第5艦隊]]が陸海共同して10月21日に[[広州市|広州]]を占領した<ref name="usu102to110" />。10月27日、中支那派遣軍は武漢三鎮([[武昌区|武昌]]、[[漢口]]、[[漢陽区|漢陽]])を占領して武漢作戦を完遂し<ref name="usu102to110" />同時に[[援蒋ルート]]も遮断した。蒋介石は首都重慶に逃れた<ref name="usu124to135" />。
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* 2月10日 - 日本海軍[[第五艦隊 (日本海軍)|第5艦隊]]が[[海南島]]を攻略した。
*3月21日 - 仏領ハノイで[[汪兆銘]]の暗殺未遂事件が発生した<ref name="usu119to123" />。首謀者は[[藍衣社]]または[[中華民国国防部軍事情報局|軍統]]局長の[[戴笠]]だったとされる
*3月27日 - [[中支那派遣軍]]隷下の[[第11軍 (日本軍)|第11軍]]が南昌作戦を開始し、5月9日に[[江西省 (中華民国)|江西省]]の[[南昌市|南昌]]を攻略した。
*4月25日 - 日本側が[[汪兆銘]]をハノイから脱出させ、5月6日に上海に到着し、間もなく日本を訪問した。
*5月1日 - [[湖北省 (中華民国)|湖北省]]で中国軍が反撃に打って出た[[襄東作戦|襄東会戦]]が発生。20日に日本軍は中国軍を撃退した。
*5月3日 - [[重慶爆撃]]によって外国人を含む3991人の死者が出た<ref name="usu124to135" />。
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*6月13日 - ソ連が中国側に1億5000万米ドルを借款供与した。
*7月26日 - アメリカが[[日米通商航海条約]]を突然破棄し日本政府は衝撃を受けた<ref name="usu111to117" />。この件を巡って11月からグルー駐日大使との交渉が始まるが、12月22日にアメリカは日本軍が中国大陸で全面的な貿易制限を行っている以上協定継続は不可能とする最終回答を出した<ref name="usu111to117" />。
*8月23日 - [[独ソ不可侵条約]]が締結された。[[日独伊防共協定]]を重視していた[[平沼騏一郎|平沼首相]]はこれに驚き「欧州の天地は複雑怪奇」の言葉共に内閣総辞職した。代わりに[[阿部信行]]陸軍大将が組閣した。<ref name="usu111to117" />。
*9月1日 - [[欧州|ヨーロッパ]]で[[第二次世界大戦]]が勃発し、阿部内閣は不介入を声明した<ref name="usu111to117" />。
*9月12日 - [[北支那方面軍]]と[[中支那派遣軍]]を統括する[[支那派遣軍]]が設立された。
 
* 9月13日 - [[湖南省 (中華民国)|湖南]]・[[江西省 (中華民国)|江西省]]一帯で{{仮リンク|贛湘会戦|zh|第一次长沙战役|label=}}が発生した。同地域の中国軍部隊一掃を目指した日本軍は10月8日に撤退した。
* 9月15日 - [[ノモンハン事件]]の停戦協定が成立した。
 
1939年11月15日、[[フランス領インドシナ|仏領インドシナ]][[援蒋ルート]]の遮断を目的とする[[南寧作戦]]が開始されて[[第21軍 (日本軍)|第21軍]]が[[広西省]]に侵攻し、24日に省都[[南寧]]を占領して輸送路を牽制した。欧州のドイツ軍優勢を受けた日本政府は30日に援蒋ルートの停止をフランス側に要求圧迫した。12月17日、[[広西省]][[桂林市|桂林]]の中国軍が[[南寧]]奪還を目指して進軍し、[[崑崙関の戦い|崑崙関]]で激戦が繰り広げられたが、[[第21軍 (日本軍)|第21軍]]下の[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]がこれを撃退した。それと並行して第21軍本隊は12月24日から[[翁英作戦]]を始めて[[広東省 (中華民国)|広東省]]北部に侵攻し、同地の中国軍を一掃して後顧の憂いを絶った。続けて1月28日から[[賓陽作戦]]が行なわれ、[[広西省]]に取って返した第21軍本隊は[[南寧]]周辺にいる中国軍を駆逐した。また、12月から中国軍の[[冬季攻勢 (1939-1940年)|冬季大攻勢]]が作戦始動され、翌年2月までの間に[[綏遠省|綏遠]]・[[山西省 (中華民国)|山西]]・[[山東省 (中華民国)|山東]]・[[河南省 (中華民国)|河南]]・[[湖北省 (中華民国)|湖北]]・[[江西省 (中華民国)|江西]]・[[広東省 (中華民国)|広東省]]といった幅広い戦線で日本軍への急襲攻撃が断続的に行なわれた。最終的な損害は日本側2万5千、中国側は10万以上だった。
 
日本と協調する中国新政府樹立の意志を固めた[[汪兆銘]]は6月から中国大陸を回って各地の要人たちと調整を重ねており、また11月から上海に滞在して軍部関係者と建国後の日本軍駐留地域について協議していた。その結果、12月30日に日本政府との間で日華新関係調整要綱を起草した<ref name="usu119to123" />。しかしその譲歩的内容に憤激した[[高宗武]]らが、年が明けた1940年1月6日に上海を脱出して英領香港に駆け込み、そこで日中間の取り決め内容を暴露して[[汪兆銘政権]]はただの日本の傀儡であると訴えた<ref name="usu119to123" />。1月14日、貿易省設置問題と[[価格等統制令]]で官僚と国民双方の支持を失った[[阿部内閣]]は倒れ、次は[[米内光政]]海軍大将が組閣した<ref name="usu111to117" />。3月30日、汪兆銘が南京を首都とする[[汪兆銘政権|中華民国南京国民政府]]を樹立した<ref name="usu119to123" />。[[中華民国臨時政府 (北京)|中華民国臨時政府]]と[[中華民国維新政府]]はこれに吸収合併され、中国大陸の日本勢力圏そのまま版図となった。
 
1940年5月1日、[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]西部の[[宜昌市|宜昌]]を攻略して武漢の脅威を減らす[[宜昌作戦]]が開始され[[第11軍 (日本軍)|第11軍]]が出撃した。18日、武漢から重慶と[[成都市|成都]]を集中爆撃する一〇一号作戦も実施され、これは10月26日まで続いた<ref name="usu124to135" />。6月12日に[[第11軍 (日本軍)|第11軍]]は[[宜昌市|宜昌]]を攻略燼滅し<ref name="usu124to135" />すぐ帰還する予定だったが、欧州で快進撃するドイツ軍の14日パリ占領を見た日本軍は強気になり、重慶にも近い[[宜昌市|宜昌]]の占領確保により蒋介石をより強く圧迫する事を決めた。6月19日、本国が降服間近の[[フランス領インドシナ|フランス領インドシナ政府]]は、日本が繰り返し要求していた[[援蒋ルート]]の閉鎖を承諾した。24日から29日にかけての重慶爆撃は特に苛烈を極めた <ref name="usu124to135" />。7月18日、ドイツ優勢を追い風にした日本政府の要求に応じてイギリスがビルマ援蒋ルートを閉鎖した<ref name="usu124to135" />。ドイツ軍の欧州席巻に勢いづいた陸軍は「バスに乗り遅れるな」とばかりに日独伊同盟に難色を示す[[米内光政|米内首相]]の倒閣を狙って[[畑俊六|畑陸相]]に辞職を促し代わりの陸相を立てなかったので、7月22日に[[米内内閣]]は総辞職に追い込まれた<ref name="usu119to123" />。[[米内光政|米内首相]]は後の[[大政翼賛会]]に繋がる[[新体制運動]]にも消極的だった。この双方に前向きな[[近衛文麿]]が再び組閣して[[第二次近衛内閣]]が発足した<ref name="usu111to117" />。26日、[[基本国策要綱]]でいわゆる[[八紘一宇]]が唱えられた<ref name="usu124to135">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p124-135</ref>。8月1日、[[松岡洋右|松岡外相]]は[[大東亜共栄圏]]確立に向けた外交方針を発表した<ref name="usu124to135" />。
1940年5月・6月のドイツ軍による西ヨーロッパの席捲を進撃を背景に日本政府は[[6月24日]]、英仏にビルマルートおよび香港経由による援蒋行為の停止を要求した<ref name="usu111to117" />。[[5月18日]]より、日本軍、漢口、運城基地から重慶、成都を空襲する[[一〇一号作戦]]が10月26日まで実施された<ref name="usu124to135" />。6月12日には[[宜昌作戦|宜昌占領]]<ref name="usu124to135" />。[[6月24日]]から[[6月29日]]までは連続して猛爆が行われた <ref name="usu124to135" />。1940年7月11日、アメリカは日本に対して、武力による領土獲得政策を堅持する諸国と強調するのか、という確認をしたが、米内内閣は答弁することがないまま、陸軍の総意によって<ref name="usu119to123" />倒壊し、7月21日に[[第二次近衛内閣]]が成立する<ref name="usu111to117" />。7月18日、英国、日本の要求に応じ援蒋ルート(ビルマルート)を閉鎖<ref name="usu124to135" />。
<!--[[7月20日]] - 重慶で日本人民反戦同盟の成立大会を開催--->7月26日、[[基本国策要綱]]で「皇国の国是は[[八紘一宇|八紘を一宇とする肇国]]の大精神」が唱えられた<ref name="usu124to135">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p124-135</ref>。7月27日の大本営では南方問題解決のため武力を用いることが決定された<ref name="usu124to135" />。8月1日、松岡外相は日本満州シナを一環とする[[大東亜共栄圏]]確立という外交方針を発表した<ref name="usu124to135" />。
 
*[[8月20日]]<!-- 8月2日としている文献もある -->〜[[12月5日]] - 20万の八路軍が、山西から河北にかけての鉄道、通信網、日本軍警備拠点を一斉攻撃し、大攻勢をかけた[[百団大戦]]が展開される<ref name="isikawa200">[[石川禎浩]]『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史3』岩波新書,2010年,p200-201</ref>。日本軍は不意をつかれ、以後「敵性住民」の死滅も認めた報復攻撃によって八路軍の抗日根拠地の掃討作戦を開始し、中国はこれを[[三光作戦]]と呼んだ<ref name="isikawa200" />。この掃討作戦では毒ガスも使用されたといわれ、八路軍の抗日根拠地のなかには人口が3分の2になった地区もあった<ref name="isikawa200" />。