「日中戦争」の版間の差分

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日本と協調する中国新政府樹立の意志を固めた[[汪兆銘]]は、6月から中国大陸を回って各地の要人たちと調整を重ね、また11月から上海に滞在して軍部関係者と建国後の日本軍駐留地域について協議していた。その結果、12月30日に日本政府との間で日華新関係調整要綱を起草した<ref name="usu119to123" />。しかしその譲歩的内容に憤激した[[高宗武]]らが、年が明けた1940年1月6日に上海を脱出して英領香港に駆け込み、そこで日中間の取り決め内容を暴露して[[汪兆銘政権]]はただの日本の傀儡であると訴えた<ref name="usu119to123" />。1月14日、貿易省設置問題と[[価格等統制令]]で官僚と国民双方の支持を失った[[阿部内閣]]は倒れ、次は[[米内光政]]海軍大将が組閣した<ref name="usu111to117" />。3月30日、汪兆銘が南京を首都とする[[汪兆銘政権|中華民国南京国民政府]]を樹立した<ref name="usu119to123" />。[[中華民国臨時政府 (北京)|中華民国臨時政府]]と[[中華民国維新政府]]はこれに吸収合併され、中国大陸の日本軍勢力圏がそのまま版図となった。
 
1940年5月1日、[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]西部の[[宜昌市|宜昌]]を攻略して武漢の脅威を減らす[[宜昌作戦]]が開始され[[第11軍 (日本軍)|第11軍]]が出撃した。18日、武漢から重慶と[[成都市|成都]]を集中爆撃する一〇一号作戦も実施され、これは10月26日まで続いた<ref name="usu124to135" />。6月12日に[[第11軍 (日本軍)|第11軍]]は[[宜昌市|宜昌]]を攻略燼滅し<ref name="usu124to135" />すぐ帰還する予定だったが、欧州で快進撃するドイツ軍の14日パリ占領を見た日本軍は強気になり、重慶にも近い[[宜昌市|宜昌]]占領確保によりして蒋介石をより強く圧迫する事を決めた。6月19日、本国が降服間近の[[フランス領インドシナ|フランス領インドシナ政府]]は、日本が繰り返し要求していた[[援蒋ルート]]の閉鎖を承諾した。24日から29日にかけての重慶爆撃は特に苛烈を極めた <ref name="usu124to135" />。7月18日、ドイツ優勢を追い風にした日本政府の要求に応じてイギリスがビルマ援蒋ルートを閉鎖した<ref name="usu124to135" />。ドイツ軍の欧州席巻に勢いづいた陸軍は「バスに乗り遅れるな」とばかりに日独伊同盟に難色を示す[[米内光政|米内首相]]の倒閣を狙って[[畑俊六|畑陸相]]に辞職を促し代わりの陸相を立てなかったので、7月22日に[[米内内閣]]は総辞職に追い込まれた<ref name="usu119to123" />。[[米内光政|米内首相]]は後の[[大政翼賛会]]に繋がる[[新体制運動]]にも消極的だった。この双方に前向きな[[近衛文麿]]が再び組閣して[[第二次近衛内閣]]が発足した<ref name="usu111to117" />。26日、[[基本国策要綱]]でいわゆる[[八紘一宇]]が唱えられた<ref name="usu124to135">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p124-135</ref>。8月1日、[[松岡洋右|松岡外相]]は[[大東亜共栄圏]]確立に向けた外交方針を発表した<ref name="usu124to135" />。
 
8月20日、[[八路軍]](共産軍)が[[百団大戦]]を開始し、無数のゲリラ部隊と遊撃部隊を駆使して[[山西省 (中華民国)|山西省]]と[[河北省 (中華民国)|河北省]]にある鉄道線と鉱山施設を一斉襲撃した<ref name="isikawa200">[[石川禎浩]]『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史3』岩波新書,2010年,p200-201</ref>。現地の日本軍は10~20km範囲に1個中隊(約150名)を置くという分散警備状態にあったので当初は不意を付かれて少なからぬ被害を出し、また多くの鉄道、鉱山、電信施設が破壊された。ただちに反攻作戦に出た日本軍は、あらかじめ調査していた共産勢力の根拠地を虱潰しに叩いていき、この掃討戦は12月3日まで続いた。結果的に[[八路軍]]も大きな打撃を受け、また日本側に内部情報を把握された事で以後2年間の共産活動は縮小した。ゲリラ戦に手を焼いた日本軍は、共産支配地と特定された地区の者たちを一律「敵性住民」と見なし、彼らが二度とゲリラ蜂起しないように徹底根絶を図るという[[燼滅作戦]]を10月から実行に移した。中国側はこれを日本軍による[[三光作戦]]と読んだ<ref name="isikawa200" />。毒ガスの使用もあったと言われ、住民の3割以上が失われた地区もあった<ref name="isikawa200" />。
 
*[[8月20日]]<!-- 8月2日としている文献もある -->〜[[12月5日]] - 20万の八路軍が、山西から河北にかけての鉄道、通信網、日本軍警備拠点を一斉攻撃し、大攻勢をかけた[[百団大戦]]が展開される<ref name="isikawa200">[[石川禎浩]]『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史3』岩波新書,2010年,p200-201</ref>。日本軍は不意をつかれ、以後「敵性住民」の死滅も認めた報復攻撃によって八路軍の抗日根拠地の掃討作戦を開始し、中国はこれを[[三光作戦]]と呼んだ<ref name="isikawa200" />。この掃討作戦では毒ガスも使用されたといわれ、八路軍の抗日根拠地のなかには人口が3分の2になった地区もあった<ref name="isikawa200" />。
*1940年9月14日、松岡外相は陸海軍首脳会議において「英米との連携は不可能ではないが、しかしそのためには支那事変を処理しなくてはならず」「残された道は独伊との提携」と主張、陸海首脳はこれに同意した<ref name="usu124to135" />。[[9月23日]]、日本軍、[[仏印進駐#北部仏印進駐|北部仏印進駐]]。[[9月25日]]、米国、国民政府に対し2500万ドルの借款を供与。[[9月27日]]には[[日独伊三国同盟]]が締結される<ref name="usu124to135" />。[[9月30日]]、米国、[[鉄鋼]]・[[屑鉄]]の対日輸出を禁止する法令を発布<ref name="usu124to135" />。日本はこれに抗議したが、ハル国務長官は、アメリカの国防上の判断であるとして抗議を拒絶した<ref name="usu124to135" />。
*[[9月]]末 - 日本陸軍[[今井武夫]]大佐らの蒋介石夫人[[宋美齢]]の弟[[宋子良]]への日中和平工作([[今井武夫#桐工作|桐工作]])を行っていたが、進展せず、断念(のちに宋子良を称した人物は偽物で、この和平工作は[[藍衣社]]の[[戴笠]]の指揮下に行われていたことがわかっている)<ref name="usu124to135" />。
 
* [[10月4日]]、イギリスはビルマルート再開を中国側に通知する<ref name="usu124to135" />。同日、日本軍[[731部隊]]が衢県において細菌戦を実行したとされる<ref>[http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/A9D4C04B00E1852349256C30001FA66A.pdf]平成14年8月27日判決言渡第1事件・平成9年(ワ)第16684号 損害賠償請求事件第2事件・平成11年(ワ)第27579号 損害賠償等請求事件</ref>。
* 1940年[[10月]] - 日本軍、[[燼滅作戦]](三光作戦)開始。
* [[10月23日]]、日本首脳会議で英米依存経済から自給圏確立のために南方問題を武力解決する方針が確認された<ref name="usu124to135" />。
* [[10月4日]]、イギリスはビルマルート再開を中国側に通知する<ref name="usu124to135"/>。同日、日本軍[[731部隊]]が衢県において細菌戦を実行したとされる<ref>[http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/A9D4C04B00E1852349256C30001FA66A.pdf]平成14年8月27日判決言渡第1事件・平成9年(ワ)第16684号 損害賠償請求事件第2事件・平成11年(ワ)第27579号 損害賠償等請求事件</ref>。
* [[10月23日]]、日本首脳会議で英米依存経済から自給圏確立のために南方問題を武力解決する方針が確認された<ref name="usu124to135"/>。
 
* [[11月]]〜[[12月]] - 日本軍、[[漢水作戦]]。11月には支那派遣軍の兵力は20個中隊、総計72万8000人であった<ref name="usu124to135"/>。[[11月23日]]日本は[[御前会議]]で[[支那事変処理要綱]]を決定、これは1938年[[11月30日]]の日支新関係調整方針と比較すると宥和的なものであった<ref name="usu124to135"/>。[[11月30日]]、 日本は汪兆銘南京政府と[[日華基本条約]]に調印し[[日満華共同宣言]]を発表、南京政府を中国中央政府として正式承認した<ref name="usu124to135"/>。米英は即座に汪兆銘政府を否認、米国は国民政府に対して借款の追加供与1億ドル、[[12月10日]]には英国も国民政府に一千万ポンドの借款を供与すると発表した<ref name="usu124to135"/>。[[12月11日]]、 ソ連も国民政府に対し1億元の借款を供与([[物々交換|バーター]]決済)。[[12月13日]]、蒋介石はアメリカに航空機5〜10%の提供、日本本土遠距離爆撃のために[[B-17 (航空機)|B17]][[戦略爆撃機]]を要請した<ref name="usu124to135"/>。