「フィリップ・ペタン」の版間の差分

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しかし彼の軍事思想<ref>当時、参謀本部で優勢であった積極的攻撃論に異議を唱え、[[堡塁]]防御の戦術を主張していた。(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 [[原書房]] 2004年 162ページ)</ref>が[[フランス陸軍]]総司令官[[ジョゼフ・ジョフル]]の目に止まり、[[マルヌ会戦]]を前にこの年の8月3日、第1軍団第4歩兵[[旅団]]長、31日に[[少将]]<ref name=major>それぞれ[[准将]]、少将相当官となるのは第二次世界大戦後。[[:en:Major general#France]]文末参照。</ref>に昇任、9月2日に第6歩兵師団長、14日に[[中将]]<ref name=major />に昇任。10月20日に第33軍団長、翌1915年6月21日に第2軍司令官と一気に昇進した。以降[[アルトワの戦い]]や[[シャンパーニュの戦い]]で戦功を挙げ、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]で最も卓越した指揮官の一人という評価を得るに至った。1916年2月21日の[[ヴェルダンの戦い]]では、バル・ル・デュックとヴェルダンを結ぶ街道(バル・ル・デュック街道、神聖街道)を兵士と物資を頻繁に運んだ。特に兵士は交替しながら戦争できるように回転させた。こうして第2軍司令官としてフランス軍を勝利に導き、「ヴェルダンの英雄」という名声を得た。その高い人気もあって1917年には[[ロベール・ニヴェル]]の後任としてフランス陸軍総司令官となった。1918年、[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]の勝利で第一次世界大戦が終結した後の11月には[[フランス元帥|元帥]]に昇進している。
 
なお、第33歩兵連隊時代からの部下に、後の大統領・[[シャルル・ド・ゴール]]がいた。ペタンはド・ゴールを可愛がって戦前から戦間期まで軍内の活動に便宜を図り、ド・ゴールの長男フィリップの名付け親になるなど親密な関係だった。しかしド・ゴールが機甲部隊による[[電撃戦]]などを提唱すると対立を深め、第二次大戦前には決定的に決裂することになる
 
=== 戦間期 ===