「小川邦和」の版間の差分

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割と右翼 (会話 | 投稿記録)
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ノーマークだったが、独持の[[スリークォーター]]似の[[サイドスロー]]から[[変化球]]を操る小川の2[[完封]]などで決勝へ進出。相手は3完封で勝ち進んで来た[[尾崎将司|尾崎正司]]がエースの[[徳島県立海南高等学校|海南高校]]。第1回大会を除くと史上初の初出場対決となった決勝は、初めて外野席の入場制限が出るほどの大人気となった。試合は尾道商が7回までリードし、小川曰く「[[尾道市]]内をパレードしている姿が浮かんだ」が、体は既に限界を超え、8回に尾崎の三塁打などを浴び逆転。9回裏の尾道商2死満塁の逆転機に小川が一飛に終わり、2-3で敗戦、準優勝にとどまる。
 
同年の春季九州大会では、準決勝で下関商の[[池永正明]]に投げ勝ち、決勝でも[[山口県立柳井高等学校|柳井高]]を降し優勝を飾る。6月の[[第19回国民体育大会|新潟国体]]でも決勝に進出し、選抜で完封した[[福岡市立博多工業高等学校|博多工]]と対戦。エース[[橋本孝志]]と投げ合うが、今回は0-2で完封を喫しまたも準優勝に終わる。夏の[[全国高等学校野球選手権広島大会|県予選]]決勝では[[広陵高等学校 (広島県)|広陵]]に敗れ、甲子園出場を逸した。高校同期に四番打者、[[遊撃手]]で[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]入りした[[田坂正明]]がいる。
 
{{by|1965年}}[[4月]]、[[早稲田大学]][[文学部|第二文学部]][[哲学|西洋哲学]]専修に入学。[[早稲田大学野球部|野球部]]には上級生に[[八木沢荘六]]、[[三輪田勝利]]など好投手がおり、なかなか出番がなかったが、3年生時から[[東京六大学野球連盟|東京六大学リーグ]]に出場。一年下の左腕投手、[[小坂敏彦]]とともに{{by|1968年}}秋季リーグの優勝に貢献、しかし、同季には[[田淵幸一]]にリーグ新記録となる22号本塁打を打たれている。リーグ通算22試合登板、10勝5敗、防御率2.70、63奪三振。大学同期には長倉春生([[大昭和製紙硬式野球部|大昭和製紙]])、蓑輪努([[ヤマハ硬式野球部|日本楽器]])がいた。