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|選手写真ファイル名 = IMG 1874 Tyrone Woods.jpg
|写真サイズ = 275
|写真のコメント = 中日時代<br/>(2008年6月1日、[[西武ドーム]]
|国籍 = {{USA}}
|出身地 = [[フロリダ州]][[ブルックスビル (フロリダ州)|ブルックスビル]]
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'''ウィリアム・タイロン・ウッズ'''('''William Tyrone Woods''' , [[1969年]][[8月19日]] - )は、[[アメリカ合衆国]][[フロリダ州]]出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]]、[[外野手]])。
 
[[日本プロ野球]]([[日本野球機構|NPB]][[韓国野球委員会|韓国プロ野球]]・[[KBOリーグ|KBO]]両方で[[本塁打王]][[打点王]]の二冠王に輝いた唯一の選手である。
 
== 経歴 ==
=== アメリカ時代 ===
{{by|1988年}}に[[ワシントン・ナショナルズ|エクスポズ]]と契約した<ref name="スポニチ2009-09-01"/>。その後[[ボルチモア・オリオールズ|オリオールズ]]、[[ボストン・レッドソックス|レッドソックス]]と移籍するが、[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]昇格はならなかった。メジャー昇格できなかった理由は守備面が原因だったが、本人は「人種的な壁があった」と述べている<ref name="スポニチ2009-09-01"/>
 
=== 斗山時代 ===
[[大韓民国]](韓国)・[[KBOリーグ]]に外国人選手制が導入された{{by|1998年}}に同リーグのOBベアーズ({{by|1999年}}より[[斗山ベアーズ]])に入団して以降<ref name="東亜日報2002-11-22"/>、{{by|2002年}}に退団するまで5年間で通算打率.295・174本塁打・510打点の成績を残した<ref name="毎日新聞2002-12-10">『[[毎日新聞]]』2002年12月10日東京朝刊スポーツ面18頁「[プロ野球だより]横浜 2外国人野手との入団交渉が合意」</ref><ref>『毎日新聞』2002年12月10日大阪朝刊スポーツ面21頁「[プロ野球だより]9日(金額は推定)」</ref>。中でも通算174本塁打は2016年時点でKBOリーグの歴代外国人本塁打記録であり<ref name="東亜日報2016-02-17"/>、横浜移籍後の2004年には『[[東亜日報]]』にて[[フェリックス・ホセ]]([[ロッテ・ジャイアンツ]])とともに「韓国プロ野球史上最強の外国人選手」と紹介されたほか<ref>{{Cite news|title=私が史上最強の傭兵打者|newspaper=[[東亜日報]]|date=2004-06-04|author=張桓壽|url=http://www.donga.com/jp/article/all/20040604/281110/|accessdate=2019-08-04|publisher=東亜日報社|publication-place=[[大韓民国]]・[[ソウル特別市]][[鍾路区]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190804133413/http://www.donga.com/jp/article/all/20040604/281110/|archivedate=2019年8月4日}}</ref>、2016年に同紙がプロ野球ファン1,000人を対象に実施した「歴代最高の外国人選手を問うアンケート調査」でも348票を獲得して1位に輝いている<ref name="東亜日報2016-02-17">{{Cite news|title=ファンが選ぶ歴代最高の外国人選手は「黒熊」ウッズ|newspaper=東亜日報|date=2016-02-17|author=ファン・ギュイン|url=http://www.donga.com/jp/article/all/20160217/525597/|accessdate=2019-08-04|publisher=東亜日報社|publication-place=大韓民国・ソウル特別市鍾路区|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190804140837/http://www.donga.com/jp/article/all/20160217/525597/|archivedate=2019年8月4日}}</ref>。
{{by|1998年}}、[[韓国野球委員会|韓国プロ野球(KBO)]]のOBベアーズ({{by|1999年}}より[[斗山ベアーズ]])に入団。登録名は「ウジュ(우즈)」。同年、本塁打王と打点王の二冠を獲得し、シーズンMVPに輝く。当時シーズン42[[本塁打]]は韓国記録だった。韓国時代はファンから「'''黒熊'''」というニックネームで親しまれていた。
 
登録名は「ウジュ(우즈)」で<ref name="東亜日報2016-02-17"/>、韓国時代はファンから「'''黒熊'''」のニックネームで親しまれていた<ref name="スポニチ2009-09-01">{{Cite news|title=【9月4日】2008年(平20) T・ウッズ、外国人初の6年連続!それでもイヤな予感が…|newspaper=Sponichi Annex([[スポーツニッポン]])|date=2009-09-01|origdate=2008-09-04|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0709/kiji/K20090901Z00003020.html|accessdate=2019-08-04|publisher=スポーツニッポン新聞社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190804142404/https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0709/kiji/K20090901Z00003020.html|archivedate=2019年8月4日}}</ref>。1998年は来韓1年目で[[張鍾勲]]([[ハンファ・イーグルス|ピングレ・イーグルス]]、{{by|1992年}})が保有していた韓国記録のシーズン41[[本塁打]]を更新する歴代最多(当時)の42本塁打を放ち、本塁打王・打点王の二冠を獲得した。同年10月8日には韓国プロ野球記者協会により外国人選手としては初めて同シーズンの最優秀選手(MVP)に選出された<ref>『[[中日新聞]]』1998年10月9日朝刊第一運動スポーツ面33面「【ソウル・[[共同通信社]]】最多本塁打ウッズ 初の外国人MVP 韓国プロ野球」([[中日新聞社]])</ref>。
{{by|2001年}}は打点王、韓国シリーズMVPなどのタイトルを獲得し、斗山ベアーズの韓国シリーズ優勝に貢献。この時、一度中日と入団交渉を行っている。この時の交渉は不調に終わったが、当時の打撃コーチだった[[佐々木恭介]]はウッズの打撃を高く評価していた。
 
{{by|2001年}}は[[KBOオールスターゲーム]]にてソロ本塁打を含め4打数4安打を記録してMVPに輝いたほか<ref>{{Cite news|title=今日、2002韓国プロ野球オールスター戦|newspaper=東亜日報|date=2002-07-16|author1=金相洙|author2=梁鍾久|url=http://www.donga.com/jp/article/all/20020716/269492/|accessdate=2019-08-04|publisher=東亜日報社|publication-place=大韓民国・ソウル特別市鍾路区|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190804140221/http://www.donga.com/jp/article/all/20020716/269492/|archivedate=2019年8月4日}}</ref>、レギュラーシーズンで打点王を獲得して斗山ベアーズの韓国シリーズ優勝に貢献し、韓国シリーズでもMVPを獲得した。同年は[[韓国シリーズ]]を観覧するため訪韓していた後の所属球団である[[中日ドラゴンズ]]の打撃コーチ(当時)・[[佐々木恭介]]がウッズを高く評価していたが<ref name="東亜日報2001-10-26">{{Cite news|title=「黒熊」ウッズ、優勝を狙う|newspaper=東亜日報|date=2001-10-26|author=金相洙|url=http://www.donga.com/jp/article/all/20011026/215256/|accessdate=2019-08-04|publisher=東亜日報社|publication-place=大韓民国・ソウル特別市鍾路区|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190804133736/http://www.donga.com/jp/article/all/20011026/215256/|archivedate=2019年8月4日}}</ref>、この時は入団には至らなかった。一方で同年オフには斗山球団に対し「来季は韓国でプレーしない」と揺さぶりをかけたが、結局は斗山に残留している<ref name="東亜日報2002-11-22"/>。
{{by|2002年}}限りでベアーズを退団したが、5年間で通算打率.295・174本塁打・510打点の成績を残した<ref name="毎日新聞2002-12-10">『[[毎日新聞]]』2002年12月10日東京朝刊スポーツ面18頁「[プロ野球だより]横浜 2外国人や首都の入団交渉が合意」</ref><ref>『毎日新聞』2002年12月10日大阪朝刊スポーツ面21頁「[プロ野球だより]9日(金額は推定)」</ref>。
 
{{by|2002年}}は年俸23万1000ドル+オプション10ドルの報酬を受け取っていたが、同年は打率.256・25本塁打・82打点と期待外れの成績に終わり、シーズン終了後には米国に帰国して「最高の待遇をしてくれなければ韓国でプレーしない」として日本球界進出を打診するようになった<ref name="東亜日報2002-11-22">{{Cite news|title=来シーズンプロ野球外国人選手 とくに懸命なロッテ|newspaper=[[東亜日報]]|date=2002-11-22|author=金相洙|url=http://www.donga.com/jp/article/all/20021122/271668/|accessdate=2019-08-04|publisher=東亜日報社|publication-place=大韓民国・ソウル特別市鍾路区|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190804133418/http://www.donga.com/jp/article/all/20021122/271668/|archivedate=2019年8月4日}}</ref>。これに対し斗山球団はウッズに対し電話連絡で「年報凍結で再契約する」と伝え、クァク・ホンギュ団長は『東亜日報』の取材に対し「去年と同じで『韓国でプレーしない』という発言はこけおどしだろうが、保留選手締め切り期限の2002年11月30日までに返信してほしい。同日までにウッズから契約の意思をが伝わってこなければ他の外国人選手を探す」と述べていた<ref name="東亜日報2002-11-22"/>。
 
なお[[李承ヨプ (野球)|李承燁]]([[サムスン・ライオンズ]])とは当時からライバル関係で<ref>{{Cite news|title=キーワードで見た06シーズンの李承鎏|newspaper=東亜日報|date=2006-10-11|author=|url=http://www.donga.com/jp/article/all/20061011/295576/|accessdate=2019-08-04|publisher=東亜日報社|publication-place=大韓民国・ソウル特別市鍾路区|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190804142313/http://www.donga.com/jp/article/all/20061011/295576/|archivedate=2019年8月4日}}</ref>、李は後に日本球界でも[[読売ジャイアンツ]](巨人)に所属して{{by|2006年}}にウッズと[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]本塁打王を競い合ったが<ref>{{Cite news|title=李承鎏、本塁打王の夢あきらめる|newspaper=東亜日報|date=2006-10-09|author=|url=http://www.donga.com/jp/article/all/20061009/295544/|accessdate=2019-08-04|publisher=東亜日報社|publication-place=大韓民国・ソウル特別市鍾路区|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190804141816/http://www.donga.com/jp/article/all/20061009/295544/|archivedate=2019年8月4日}}</ref>、ウッズが韓国球界でプレーしていた当時を「当時の自分の目標は本塁打王や打点王ではなく『ウッズに勝つこと』だった」と述べている<ref name="東亜日報2016-02-17"/>。
 
=== 日本時代 ===
==== 横浜時代 ====
{{by|2002年}}12月10日に[[スティーブ・コックス]]とともに[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]との入団交渉が合意に達したことが発表された<ref name="毎日新聞2002-12-10"/>。1年契約で<ref>『中日新聞』2002年12月10日朝刊第一運動スポーツ面29面「横浜 現役大リーガー コックスを獲得」中日新聞社)</ref>、当時の推定年俸は5,000万円・背番号は44)'''44'''<ref name="毎日新聞2002-12-10"/>。
 
{{by|2003年}}1月29日には[[神奈川県]][[横浜市]]内の球団事務所内でコックスや[[マット・ホワイトサイド]]とともに3人で新外国人選手の入団会見に出席した<ref>『[[東京新聞]]』2003年1月30日朝刊第二運動スポーツ面18面「【横浜】外国人3選手会見」(中日新聞社)</ref>。シーズン開幕前はコックスの控えという位置付けだったが、コックスがキャンプ中に怪我で離脱すると代わって4番に定着する。同年し、最終的に100打点には届かなかったものの[[アレックス・ラミレス]]([[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]])とともに40本塁打を放ち[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]を獲得([[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]の[[アレックス・ラミレス]]と分け合う)した。またKBONPBでホームラン本塁打王を獲得した史上初の選手となったが、これを達成したのは2018年現在でウッズただ1人だけである。だが、100打点同年11月13日には前年ら倍増とかっる年俸100万ドル(日本円で約1億1000万円)の1年契約で翌シーズンの契約を締結することに合意し<ref>『中日新聞』2003年11月14日朝刊第二運動スポーツ面24面「ウッズ倍額 横浜に残留」(中日新聞社)</ref>
 
{{by|2004年}}も45本塁打を放ち、[[タフィ・ローズ]]([[読売ジャイアンツ|巨人]])と分け合う形で2年連続の本塁打王を獲得したほか、打点も100を超え最終的に103打点をマークした。2004年10月8日に米国へ帰国する前に「来季も日本でプレーすることを希望する」とした上で「来シーズンからの2年契約・年俸大幅アップ」を要求したが、球団側は「2年目の契約を解除できる条項を盛り込んだ上でバイアウト方式による2年契約」を提示したため折り合わず、[[山中正竹]]球団専務は「現時点では2年契約はない。金銭面も外国人選手に甘すぎるところがあった」としてウッズの要求を受け入れなかったため、交渉が決裂する形となった<ref>『中日新聞』2004年10月9日朝刊第一運動スポーツ面23面「ウッズ、横浜退団が濃厚」(中日新聞社)</ref>。
{{by|2004年}}も45本塁打で2年連続の本塁打王を獲得([[読売ジャイアンツ|巨人]]の[[タフィ・ローズ]]と分け合う)し、打点も100を超え、最終的に103打点をマークした。しかし、オフの契約更改の席にて複数年契約を申し出るが、高齢や[[得点圏|チャンス]]に弱いことなどから合意に至らず退団。その後長距離打者を求める[[中日ドラゴンズ]]や[[阪神タイガース]]などからオファーがあり<ref>{{Cite web|title=SANSPO.COM|url=https://web.archive.org/web/20041209193555/https://www.sanspo.com/baseball/top/bt200410/bt2004100904.html|website=web.archive.org|date=2004-12-09|accessdate=2019-03-05}}</ref>、2年契約で中日へ移籍した。
 
結局、高齢・[[得点圏|チャンス]]に弱いことなどから合意に至らず横浜を退団した。その後は[[中日ドラゴンズ]]に加え、同年オフに主砲[[ジョージ・アリアス]]が退団した[[阪神タイガース]]<ref>『[[毎日新聞]]』2004年12月2日東京朝刊第一スポーツ面17面「プロ野球:横浜退団のウッズ、中日へ移籍--2年で10億円」([[毎日新聞社]]、記者:仁瓶和弥)</ref>などがオファーを寄せていたが、横浜退団が決定的となった直後に『[[サンケイスポーツ]]』([[産業経済新聞社]])は「ウッズは前年(2003年)オフに横浜から中日へ移籍した[[ドミンゴ・グスマン]]と代理人が同じ」という関係から「移籍先は中日が本命」と報道していた<ref>{{Cite web|title=横浜・ウッズの退団が決定的…複数年契約ならどこでも|newspaper=SANSPO.COM([[サンケイスポーツ]])|publisher=[[産業経済新聞社]]|url=https://www.sanspo.com/baseball/top/bt200410/bt2004100904.html|date=2004-10-09|accessdate=2019-03-05|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20041209193555/https://www.sanspo.com/baseball/top/bt200410/bt2004100904.html|archivedate=2004年12月9日}}</ref>。結局、中日球団の[[白井文吾]]オーナー・西川順之助球団社長らは[[2004年の日本シリーズ|日本シリーズ]]閉幕後の2004年11月1日までにウッズの獲得競争に名乗りを上げ<ref>『中日新聞』2004年11月2日朝刊第一運動スポーツ面23面「ウッズ獲得へ 中日が名乗り」(中日新聞社)</ref>、2004年12月2日には球団史上最高額となる年俸5億円・2年契約(総額10億円)でウッズを獲得したことを発表した<ref name="中日新聞2004-12-03">『中日新聞』2004年12月3日朝刊第一運動スポーツ面27面「本塁打王ウッズ中日入り 球団史上最高年俸5億円・2年契約」(中日新聞社)</ref>。中日は翌2005年に球団史上初のリーグ連覇・1954年以来51年ぶり2度目の日本一を目指していた一方、[[レオ・ゴメス]](1997年 - 2002年)が退団して以来は長距離打者不在が懸案となっていたことから、課題点の長打力を補強するためウッズと入団交渉を進め、獲得にこぎついた<ref name="中日新聞2004-12-03"/>。2004年12月14日には背番号が横浜時代と同じ44番に決まったことが発表された<ref>『中日新聞』2004年12月15日朝刊第一運動スポーツ面21面「プロ野球短信 ウッズ背番号は44」(中日新聞社)</ref>。
 
==== 中日時代 ====
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== 人物 ==
韓国時代から「打撃に起伏がなく大きな短所がない。他の選手と異なり大舞台でも緊張せず普段通りの力が出せる」点に加え、野球に真摯に打ち込む誠実な態度が高く評価されていた<ref name="東亜日報2001-10-26"/>。
 
高校時代は[[アメリカンフットボール]]をやっていたといい、がっしりとした体つきをしている。
 
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背番号の44は、少年時代の憧れの選手だった[[レジー・ジャクソン]]にちなんだものとされている。一説には1944年に締結された[[ブレトン・ウッズ協定]]にちなんで、という説もあるが詳細は不明。また、在籍した横浜・中日共に退団後の背番号44は[[小池正晃]]がいずれも継承している。
 
2006年は3・4番を組んで以降た[[福留孝介]]と共に「'''FW砲'''」と中日スポーツで名づけられた事があった。また、[[和田一浩]]が移籍してきた2008年は「'''WW砲'''」と名づけられた。
 
2007年に日本一になった際、MLBでは一般的だった[[チャンピオンリング]]を作って欲しいと報道陣に語ったことがある。当初は製作予定はなかったが後に球団が製作することとなった。日本では他に[[2005年]]に[[千葉ロッテマリーンズ]]が日本一になったのを記念して製作し、選手やスタッフに贈られたことがある。
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== 外部リンク ==
* {{Cite web|url=https://www.koreabaseball.com/Record/Retire/Hitter.aspx?playerId=98233|title=은퇴선수(타자) | 기록실 | KBO|accessdate=2019-08-04|publisher=[[韓国野球委員会]]|website=[[KBOリーグ]]|language=ko|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190804140253/https://www.koreabaseball.com/Record/Retire/Hitter.aspx?playerId=98233|archivedate=2019年8月4日}}
{{NPB|51855117}}