「ジェームス・ブラウン」の版間の差分

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'''ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニア'''(James Joseph Brown, Jr., [[1933年]][[5月3日]] - [[2006年]][[12月25日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[ソウルミュージック]]、R&B、ファンク[[歌手|シンガー]]、[[音楽プロデューサー]]、[[作曲家]]、編曲家、レコード・レーベル経営者
 
「ナンバーワン・ソウル・ブラザー」「ゴッドファーザー・オブ・ソウル」「キング・オブ・ソウル」「ミスター・ダイナマイト」「ファンキー・プレジデント」など、いくつものニック・ネイムを持っていた。''The Hardest Working Man in Show Business''(ショウビジネス界一番の働き者)とも称された。[[シャウト]]を用いたソウルフルなヴォーカルと、革新的なファンク・サウンドがブラウンの音楽性の特徴である。
 
父は[[アパッチ族]][[インディアン]]で、母は[[アフリカ系アメリカ人|アフリカ系黒人アメリカ人]]と[[アジア人]]の系統である<ref name="roll">{{cite web |url=http://www.rollingstone.com/news/story/10533775/cover_story_being_james_brown/3|title=Being James Brown The Godfather of Soul invented funk, befriended presidents and laid the foundations of rap. And he did it by defying the laws of space and time. Inside the private world of the baddest man who ever lived |author=JONATHAN LETHEM |accessdate=2009-04-09 |date=2009 |publisher=[[ローリング・ストーン]] }}</ref><ref name="newh">{{cite web |url=http://www.contactmusic.com/new/xmlfeed.nsf/mndwebpages/james%20brown.s%20indian%20heritage|title=James Brown - James Brown's Indian Heritage|author=Contact Music|accessdate=2009-04-09 |date=2004 |publisher=[[Contact Music]] }}</ref>。
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== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
ジェイムズ・ジョセフ・ブラウン・ジュニアとして、[[サウスカロライナ州]]バーンウェルに生まれる。このことは、本人が自伝などでも書いているが、他にも[[1928年]]、[[テネシー州]]プラスキ生まれという説がある。成人後に、ジェイムズ・ジョセフ・ブラウンへと改名している。一家は貧しく、[[ジョージア州]][[オーガスタ (ジョージア州)|オーガスタ]]に移り住んだが、ブラウンは親類の家などで育てられた。幼少時は、綿花詰みの手伝いや下町での靴磨きを行って生計を助けた。子供時代から地元の「アマチュア・ナイト」で歌っては優勝をさらうほどの歌唱力を持っていた、とブラウンは回想している。15歳の時の車の窃盗を、16歳(成人扱い)で反省があれば8年反省がなければ16年という、差別をたっぷり含んだ有罪判決を下され、[[1948年]]から教護院に収容された。
 
教護院での服役中に、ブラウンは[[ボビー・バード]]と知り合った<ref>[http://www.historyvshollywood.com/reelfaces/get-on-up/ Get On Up True Story vs. Movie - Real James Brown, Bobby Byrd]</ref>。バードの家族は、ブラウンの釈放後の生活を助けた。ブラウンは、[[オーガスタ (ジョージア州)|オーガスタ]]または[[リッチモンド郡 (ジョージア州)|リッチモンド郡]]に戻らず、職を得るという条件で出所し、ボクサー、野球のピッチャーを短期間経験したが、脚の怪我で断念した。ブラウンは、音楽へその情熱を傾けることとなった。
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ライブ・アルバムが成功した後、最初のファンク・ナンバーとされる[[1964年]]の「アウト・オブ・サイト・''Out of Sight''」を発表。さらに「'' Night Train''」を制作した。これらの曲は、ギターのカッテングに、ホーンセクションとベース・ドラムスが特徴だった。ブラウンのヴォーカルは、リズミカルバックにのり好調を保った。しかしながら、「''Out of Sight''」はスマッシュ・レコードからリリースされたため、キング・レコードとの契約破棄に関する法廷闘争となり、裁判所は彼の録音作品の1年間リリース禁止を言い渡した。67年ごろのJBsのドラマーには、「ファンキー・ドラマー」クライド・スタブルフィールドがいた。「コールド・スウェット」はクライドがドラムスを担当した傑作ナンバーだった。
* 1960年代のバンド・主要メンバー
* [[クライド・スタブルフィールド]](Clyde Stubblefield) - ドラムス
* [[:en:John "Jabo" Starks|ジョン(ジャボ)・スタークス]](John "Jabo" Starks) - ドラムス
* ティム・ドラモンド - ベース
* バーナード・オーダム - ベース
* [[メイシオ・パーカー]] - サックス
* メルヴィン・パーカー - ドラムス
* セントクレア・ピンクニー - サックス
* ジミー・ノーレン - ギター
* バーナード・オーダム - ベース
* ナット・ケンドリック - ドラムス
* ボビー・バード - ボーカル
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=== 1970年代(ファンキー・プレジデント)===
60年代末から70年代初頭に、彼はキャリアの頂点を迎える。この時期のヒットとしては「[[セックス・マシーン (曲)|セックス・マシーン]]」「リッキン・スティック」「スーパー・バッド」「ソウル・パワー」「ギブ・イット・アップ・オア・ターン・イット・ルーズ」「アイム・ア・グリーディ・マン」「メイク・イット・ファンキー」<ref>[https://www.discogs.com/James...Make-It-Funky/master/10815 Killer Weed / No Future For The Dispossessed | Discogs]</ref>などがある。[[1970年]]3月には、ジェームス・ブラウンのバック・バンドに大幅なメンバーチェンジがあった。給料に関するトラブルから、[[メイシオ・パーカー]](テナーサックス)をはじめとするメンバーのほぼ全員が脱退した。それに伴い、[[ブーツィー・コリンズ]](ベース)らを中心とする新しいバンドが迎え入れられる。彼らは「[[JBズ]] The J.B.'s」と名付けられ、その名義でのリリースも行うようになった。ブラウンの「全盛期」を支えたJBズの主要なメンバーは、次の通りである。
* 1970-71年ごろの主要メンバー
* [[クライド・スタブルフィールド]](Clyde Stubblefield) - ドラム
* [[:en:John "Jabo" Starks|ジョン(ジャボ)・スタークス]](John "Jabo" Starks) - ドラム
* [[ロバート・マッカロウ]]<ref>「スーパー・バッド」(1970)での前衛的、フリージャズ的なソロは、この人が演奏している</ref> - テナーサックス
* [[フレッド・ウェズリー]](Fred Wesley) - トロンボーン
* [[セントクレア・ピンクニー]](St. Clair Pinckney) - テナーサックス
* [[フェルプス・キャットフィッシュ・コリンズ]](Phelps 'Catfish' Collins) - ギター
* [[ハーロン・チーズ・マーティン]](Harlon 'Cheese' Martin) - ギター
* [[ブーツィー・コリンズ|ウィリアム・コリンズ]](William 'Bootsy' Collins) - ベース
* [[ジョニー・グリッグス]](Jonny Griggs) - [[コンガ]]、パーカッション
* [[ヴィッキー・アンダーソン]](マイラ・バーンズ)(Vicki Anderson) - ボーカル
* [[ダリル・ジャミソン]](Darryl 'Hasaan' Jamison) - トランペット
* [[ロバート・マックロー]](Robert McClaugh) - テナーサックス
* [[ダニー・レイ]](Danny Ray) - MC
 
[[フレッド・ウェズリー]]が75年に脱退するまでの4〜5年間は、ポリドール時代のブラウンの充実期である。1972年から74年までの主要メンバーは次の通り。
* 1972-74年ごろの主要メンバー
* [[フレッド・トーマス]](Fred Thomas) - ベース
* [[フレッド・ウェズリー]]Fred Wesley - トロンボーン/音楽監督
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* [[メイシオ・パーカー]](Maceo Parker) - アルト・サックス ※1973年頃再加入
* [[セント・クレア・ピンクニー]](St. Clair Pinckney) - テナー・サックス
* [[エルディー・ウィリアムス]](Eldee Williams) - テナー・サックス
* [[スウィート・チャールズ・シェレル]] - ベースおよびキーボード
* [[ジミー・ノーラン]](Jimmy Nolen) - ギター ※1972年頃再加入
* [[ハーロン・チーズ・マーチン]](Harlon 'Cheese' Martin) - ギター
* [[ロバート・コールマン]](Robert Coleman) - ギター ※1971〜2年頃脱退
* [[ダリル・ジャミソン]](Darryl 'Hasaan' Jamison) - トランペット
* [[ジョニー・グリッグス]](Jonny Griggs) - コンガ、パーカッション
* [[マーサ・ハイ]](Martha 'High' Harvin) - バックボーカル
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72年にはファンクの傑作「ゲット・オン・ザ・グッド・フット」を発表した。73年、74年はやや勢いが弱まるが「ペイバック」「ファンキー・プレジデント」「マイ・サング」など、まずまずの作品を発表した。[[1974年]]には、ブラウンはアフリカで公演している。アフリカの[[ザイール]](現[[コンゴ民主共和国]])の首都のキンシャサで、ボクシング世界ヘビー級タイトルマッチが行われた。挑戦者[[モハメド・アリ]]と王者[[ジョージ・フォアマン]]が対戦し、「世紀の一戦」「[[キンシャサの奇跡]]」と謳われた。この試合をプロモートした[[ドン・キング]]が同時に開催した[[アフリカのウッドストック]]と宣伝された音楽フェスティバルに、ブラウンが出演した。この模様は、映画『モハメド・アリ かけがえのない日々』や映画『SOUL POWER』で観ることができる。
 
その後、1975年頃から起こった「[[ディスコ]]・ブーム」とともに、彼の人気は下降線をたどる。ブラウンのサウンドは、ダンディミュージックサウンドのオリジナルであるにも関わらず、皮肉にもディスコ・ブームに乗ることは出来なかった。76年の『''Get Up Offa That Thing''』や77年の『''Bodyheat''』などのヒットもあるが、70年代後半はブラウンのセールスは低調で冬の時代を迎え。しかし79年の「イッツ・トゥー・ファンキー・イン・ヒア」を含むアルバム「オリジナル・ディスコ・マン」は、佳作として後に評価されている。
 
===1980年代(アイム・バック)===
[[1980年]]、映画『[[ブルース・ブラザース]]』に出演。[[1984年]]、ラップのアフリカ・バンバータとのデュオ「ユニティ」がスマッシュ・ヒット。久々に音楽シーンの注目を集めた。[[1986年]]1月23日には[[ロックの殿堂]]入りした他、[[映画]]「[[ロッキー4/炎の友情]]」に「ソウル界のゴッドファーザー」として出演した。そして86年「リビング・イン・アメリカ」が久々のヒットとなる。さらに[[1988年]]には、フルフォースのプロデュースによる傑作「アイム・リアル」を発表した。ラップ・ヒップホップのミュージシャンたちから「我が師、我が父」として尊敬された。この時期、ブラウンの曲はラッパーたちによって非常に多くサンプリングされまくる
 
しかし、そんな矢先にトラブルが発生してしまう。1988年には、薬物吸引中に妻とケンカし、銃を乱射し、駆けつけた警察とカーチェイスを行った末、ガス欠となって逮捕され<ref>「Godfather of soul」</ref>、6年の実刑判決を受けた。
 
=== 1990年代 ===
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[[1992年]]2月25日、ブラウンは第34回[[グラミー賞]]特別功労賞を受賞している。その1年後には第4回リズム&ブルース財団賞特別功労賞を受賞した。また、[[1993年]]11月11日にオーガスタ市長のチャールズ・ディヴァニーは、オーガスタ9番街を「ジェイムズ・ブラウン大通り ''James Brown Boulevard''」と改名し記念式典を行った。また、C&Cミュージック・ファクトリーと,
ソウルIIソウルのジャジーBがプロデュースを担当した新作アルバム「ユニバーサル・ジェームス」も発表された。1993年1月には「セックス・マシーン」の再録音盤「SEX MACHINE'93」も日本でシングルとして発売、売り上げは好調だった<ref>「セックス・マシーン'93」 「ミソンパ!」の掛け声『[[日経MJ|日経流通新聞]]』1993年3月2日付、23頁</ref>
 
 
=== 2000年代 ===
[[Image:James_Brown_2001.jpg|200px|thumb|2001年に行われたNBAオールスターゲーム・ジャムセッションにて]]
[[2003年]]6月24日、ハリウッドのコダック・シアターで行われた第3回BET(ブラック・エンターテインメント・テレビジョン)アウォードに招かれる。ここでは[[マイケル・ジャクソン]]が飛び入りで参加したが、この共演は約20年ぶりのことであった。その後、マイケルは「ここにいるこの人物ほど、僕に大きな影響を与えた人はいない」とスピーチし、自らのミュージシャ音楽とダの師匠であるブラウンに生涯功労賞を手渡した。同年にはケネディセンター賞も受賞した。
 
[[2004年]]12月に、ブラウンは前立腺癌と診断され手術を受ける。
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=== 死去 ===
[[File:JB Apollo Memorial.jpg|200px|thumb|2006年12月28日、ブラウンの訃報を告知する[[アポロ・シアター]]の玄関看板]]
ブラウンは2006年[[12月24日]]、歯科医を訪れそこで肺炎の症状が判明し、ジョージア州アトランタのエモリー・クローフォード・ロング病院に入院するが、翌日の午前1時45分、死去。73歳であった。代理人によると、死因はうっ血性の心不全であった。その死去は[[CNN]]や[[英国放送協会|BBC]]など世界の多くの[[メディア]]でトップニュースとして報じられた。
 
この時、ブラウンの医者として働いていたのはコンラッド・マーレーであった<ref>[[ジョセフ・ジャクソン]]『息子 マイケル・ジャクソンへ ~天国への遺言状~』([[講談社]]、[[2010年]]6月)</ref>。マーレーは、マイケル・ジャクソンの死因を巡り、[[過失致死傷罪]]として正式に裁判するかの[[予備尋問]]を行った。ブラウンは死の時点でツアー予定を残しており、最後まで"The Hardest Working Man in Show Business"であった。
 
12月30日にオーガスタで行われた葬儀には、約8,500人のファンやマイケル・ジャクソン、[[M.C.ハマー]]などの友人、関係者が集まり、ブラウンの音楽界に残した業績、人生を讃え最後のお別れをした。ただ、元JBズのメンバーの参列が少なかったことは残念だった。ブラウンが逝去する直前に病床で話した、ブラウンのマネジャーであるチャールズ・ボビットはそのスピーチで、ブラウンが最後まで仕事のことを気にしていたこと、マイケル・ジャクソンやプリンスとしなければならない仕事があるのだと、最後に話したことを明かした。
 
== 家族私生活 ==
ブラウンは、4度の結婚を経験した。ブラウンは、最初の妻ヴァルマ・ウォーレンとの間に2人の子供、2番目の妻ディドレ・ジェンキンスとの間に3人の子供がいる。最後の妻トミー・ライ・ヒニーとは2002年に結婚したが、その後離婚している。彼らは、2004年に再婚し子供を1人授かった。
 
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* 世界的ミュージシャンの中でも驚異的な記憶力で知られていた。無名時代からの世話になったDJや関係者の名前などを覚えており、相手の人物がどうせ忘れているだろうと思い込んでいても、ブラウンはフルネームで覚えており、「あの時はありがとう」と語ったという。
* グッチ裕三は、ジェームス・ブラウンの大ファンでJBの音楽ソフトは全て持ってる、と豪語している。他にドン勝本もJBの大ファンだった。
* [[マイケル・ジャクソン]]とプリンスは、ジェームス・ブラウンから大きな影響を受けている<ref>http://blackmusicscholar.com/the-influence-of-the-century/</ref>
* プリンスは、若年時ブラウンのファンで音楽的に多大な影響を受けたが、ブラウンのコンサートでステージに上がって踊り続け、警備員に引き降ろされている。
* プリンスは、若年時ブラウンのファンで音楽的に多大な影響を受けたが、ブラウンのコンサートでステージに上がって踊り続け、警備員に引き降ろされている。
客席にいた[[マイケル・ジャクソン]]、プリンスが、ステージに飛び入り参加したことがある。先ずマイケルがステージに呼ばれ、彼独特の歌唱と踊りを披露し、観客から喝采を浴び。そして、プリンスも同会場にいる事を知ったブラウンは、ステージからプリンスを呼んだ。客席の奥からセキュリティに背負われながら登場したプリンスは、J.B'sからギターを渡されるもまともに演奏が出来ず、さらに上半身裸になり興奮状態のままフラフラとしながら寄りかかった照明器具を倒しつつ、客席に戻った。
* 2000年には、[[サマーソニック]]に出演のために来日。初日の東京公演では押していた進行の中、時間から遅れて登場し、持ち時間をオーバーして歌い続けた。しかし、次に控えていた大トリ[[ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン]]のファンであると思われる観客によてステージにペットボトルを投げつけられると袖に引っ込んだ。数分後、ステージに戻ってきたブラウンは何事も無かったように歌い続けた。2日目の大阪公演でも同じように時間をオーバーしても歌い続けた。なお、この演奏により2日続けて演奏時間を大幅に短縮されてしまったジョン・スペンサーはブラウンを尊敬しているため、それほど怒ってはいないという。
* 幼い頃のマイケル・ジャクソンは、ステージの端から彼の驚異的なステップの数々を見て学んだという。その後の彼があるのも、ブラウンによるところが大きいと言える。オーディエンスの沸かせ方も、またそうである。
* ニューミュージックのミュージシャンによる音楽ユニット[[フレンズ・オブ・アース]]の『SEX ENERGY & STAR』には、ブラウン自身の歌唱と[[メイシオ・パーカー]]のベースをフィーチャーした「SEX MACHINE」のエレクトロファンク・カバーが収録されている。レコーディングは、86年の来日公演後に行われた。
* 2000年には、[[サマーソニック]]に出演のために来日。初日の東京公演では押していた進行の中、時間から遅れて登場し、持ち時間をオーバーして歌い続けた。しかし、次に控えていた大トリの[[ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョン]]のファンであると思われる観客によってステージにペットボトルを投げつけられると袖に引っ込んだ。数分後、ステージに戻ってきたブラウンは何事も無かったように歌い続けた。2日目の大阪公演でも同じように時間をオーバーしても歌い続けた。なお、この演奏により2日続けて演奏時間を大幅に短縮されてしまったジョン・スペンサーはブラウンを尊敬しているため、それほど怒ってはいないという。
* メンバーがメディアでたびたび語っているが、ジェームス・ブラウンの来日公演招い実現した際、アリスが多額の借金を背負ったというのは事実である。
* ツアーやライブのない時には、サウスカロライナ州ビーチアイランドの川岸の自宅で生活していた。
* ニューミュージックのミュージシャンによる音楽ユニット[[フレンズ・オブ・アース]]の『SEX ENERGY & STAR』には、ブラウン自身の歌唱と[[メイシオ・パーカー]]のベースをフィーチャーした「SEX MACHINE」のエレクトロファンク・カバーが収録されている。レコーディングは、86年の来日公演後に行われた。
* メディアでたびたび語っているが、ジェームス・ブラウンを招いた際、アリスが多額の借金を背負ったというのは事実である。
* 1992年に死亡したとの誤報があった。これは[[ハードコアテクノ]]の[[L.A.スタイル|L.A. Style]]がリリースした「James Brown is Dead」のヒットが要因だったと思われる。
* 日本では、1992年にカップヌードル日本テレビCMに出演。「セックス・マシーン」の「ゲロッパ(ゲロンパ)!」を「ミソンパ!」と歌うというパロディだった<ref name=NK930302>「セックス・マシーン'93」 「ミソンパ!」の掛け声『[[日経MJ|日経流通新聞]]』1993年3月2日付、23頁。</ref>。1993年1月21日には「セックス・マシーン」の再録音盤「SEX MACHINE'93」も日本でシングルとして発売、売り上げは好調だった<ref name=NK930302 />。
<!--*スパイク・リーがJBをテーマとした新作映画の準備にはいった。JB伝説はまだまだ続く。将来のことなのでコメントアウトで-->