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この頃下院金融委員会の一員だったポールは連邦準備金制度がインフレを引き起こしたのだと考えており、この制度を非難していた。また、1980年代の貯蓄貸付危機の対策に考えられていた銀行制度の規制解除にも反対していた。1982年に下院によって作られた、アメリカ金委員会は彼の提案によるが、この委員会から引き出された彼の結論は、[[ケイトー研究所]]から出版された、"{{Lang|en|The Case for Gold}}" (金の正当性)に書かれている。1978年から1982年にかけてのポールのスタッフのリーダーは、ルー・ロックウェルである。ポールは毎年恒例の連邦議会の野球大会の常連メンバーだった。
ポールは1984年の[[アメリカ合衆国上院]]の共和党[[予備選挙]]で、フィル・グラミーに敗れた。彼は下院での再選ではなく、[[上院]]での活動を選んだのだが、結果彼は1985年に議会を去って医療の世界に戻ることになり、彼の議席は、テキサス州下院の議員だった[[トム・ディレイ]]が引き継いだ。辞任演説でポールは、「我が国の憲法の制定者は、広く市民の幸福を目的としていたが、今や特定の人々の利益が目的となっている。ここでは票の取引が正当な施策としてまかり通っている。お使い坊やの議員達は凡庸な人種なのに、自由の擁護者は変人と思われている。真の自由を愛し、
== 1988年大統領選挙戦 ==
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