「斯波義銀」の版間の差分

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[[本能寺の変]]の後は、弟の津川義冬(雄光)が信長の子の[[織田信雄]]の家老となっていたため、その下に義近もいたようで、義冬が信雄に殺害された後、[[小牧・長久手の戦い]]においてはその居城であった[[松ヶ島城]]を守ったが、[[木造具康]]・[[滝川雄利]]に攻められて蜂屋謙入とともに[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に降伏しその臣下となり、[[蒲生氏郷]]の麾下として戦った<ref name="kinoshita"/>。
 
秀吉政権の下では足利義昭や[[山名豊国]]とともに[[御伽衆]]となり、天正13年(1585年)には公家成(朝廷において公家としての待遇を受ける権利)が認められた<ref>『兼見卿記』天正13年10月6日条</ref>。こうした大名並みの待遇が許された背景には、秀吉が主君・信長の子である信雄・信孝兄弟と戦ったことに対する批判に対して、信長が追放した旧尾張守護を庇護することでその正当化を図ったとみられている<ref name="kinoshita"/>。当初は外交面で活躍し、東北に分家([[大崎氏]]・[[最上氏]]など)が点在する斯波宗家の当主として[[伊達政宗]]など東国大名との折衝にあたった。しかし[[小田原征伐]]で降った[[北条氏直]]の赦免を秀吉に嘆願した行為が増長であるとして秀吉の怒りを買い失脚した(結果的に氏直の切腹は免れたが)。のちに赦免されたものの、その後は政治的な影響力を回復することはなかった。また、晩年には[[徳川家康]]・[[徳川秀忠|秀忠]]父子と親しかったことを示す書状が残されている<ref name="kinoshita"/>。
 
天正17年([[1589年]])3月には[[聚楽第]]で発生した落書き事件に[[細川昭元]]・[[尾藤知宣]]と共に巻き込まれて一時捕縛されることとなった。ただし、木下聡はこの事件で捕らえられたのは義近ではなく、弟の蜂屋謙入であったとする(謙入はこの前後に追放された形跡があるものの、義近は引き続き秀吉に仕えているため。また、謙入の養父とみられる[[蜂屋頼隆]]がこの事件直後に病死したため、謙入への相続が認められず蜂屋氏は改易されたとしている)<ref name="kinoshita"/>。