「ジェパ」の版間の差分

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「安全地帯」に関する実態の説明無しにスルプスカ共和国軍が攻めたと記載するだけでは不十分。
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[[1991年]]、ジェパの人口は2,441人であり、うち95%にあたる2,330は[[ボシュニャク人]]([[ムスリム人]])、103人は[[セルビア人]]、8人は[[ユーゴスラビア人]]であった。
 
1992年から1995年にかけての[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]では、ジェパは、周囲をセルビア人勢力の支配地域に取り囲まれたボシュニャク人の飛び地となった。同様に、ジェパの北東に位置し、ドリナ側の下流側にある[[スレブレニツァ]]や、上流側にある[[ゴラジュデ]]([[:en:Goražde|Goražde]])なども、周囲をセルビア人勢力の支配地に取り囲まれ、孤立状態に置かれた。[[フォチャ (ボスニア・ヘルツェゴビナ)|フォチャ]]([[:en:Foča|Foča]])や[[ブラトゥナツ]]、[[ズヴォルニク]]([[:en:Zvornik|Zvornik]])などの周囲の町が、スレブレニツァやジェパよりも早くからセルビア人勢力の支配下となり、これらの土地に住んでいたボシュニャク人が[[民族浄化]]されたことにより、ジェパやスレブレニツァが残されたボシュニャク人の町として、飛び地状に取り残される形になった。ジェパを守っていた[[ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍]](ARBiH)の指揮官はアヴド・パリッチ([[:en:Avdo Palić|Avdo Palić]])であった。[[1993年]]4月、[[国際連合]]はジェパを「安全地帯」に指定し、[[国際連合保護軍|UNPROFOR]]傘下の[[ウクライナ軍]]がジェパに配置された。しかし、「安全地帯」をボシュニャク人側がゲリラ活動に利用するなどして、その言葉とは裏腹に「安全地帯」と呼べる実態<ref>{{Cite book|title=Sensō to heiwa no tanima de : kokkyō o koeta gunzō|url=https://www.worldcat.org/oclc/182737062|publisher=Iwanami Shoten|date=2007|location=Tōkyō|isbn=4000280899|oclc=182737062|last=Akashi, Yasushi, 1931-|last2=明石康, 1931-}}</ref>とは程遠かった。[[1995年]]7月、セルビア人の[[スルプスカ共和国軍]](VRS)は、国際連合の「安全地帯」指定を無視してジェパに侵入し、制圧した。スルプスカ共和国軍は、町の住民を外部に強制移動した。
 
== 関連項目 ==