「南都焼討」の版間の差分

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この火災によって罹災した範囲は北は般若寺から南は[[新薬師寺]]付近、東は東大寺・興福寺の東端から西は[[佐保村|佐保]]辺りに及び<ref>奈良市史編集審議会1994、p153。</ref>、現在の[[奈良市]]主要部の大半にあたる地域を巻き込んだ広範囲なものであった。その中で特に被害の大きかった興福寺・東大寺のうち、東大寺では[[東大寺大仏殿|金堂(大仏殿)]]・中門・回廊・講堂・東搭・[[東南院 (奈良市)|東南院]]・尊勝院・戒壇院・[[手向山八幡宮|八幡宮]]など寺の中枢となる主要建築物の殆どを失い、焼け残ったのは中心からやや離れた高台にある鐘楼・[[東大寺法華堂|法華堂]]・[[東大寺二月堂|二月堂]]や寺域西端の西大門・転害門およひ[[正倉院]]などごく一部であった<ref>『山槐記』治承4年12月28日条。『玉葉』治承5年正月6日条。</ref>。また建物だけでなく、多くの仏像・仏具・経典などがこの兵火によって灰燼に帰した。東大寺の本尊であり、国家鎮護の要であった[[東大寺盧舎那仏像|大仏]]も甚だしく焼損し、頭部と手は焼け落ちてそれぞれ仏身の前後に転がっていたという<ref>奈良市史編集審議会1994、p167。</ref>。東大寺は[[奈良時代]]の創建以来、[[延喜]]17年([[917年]])の講堂および僧坊の焼失、[[承平]]4年([[934年]])の落雷による西塔の焼失などの災害に見舞われたことはあったものの<ref>同、p58−60。</ref>、大仏殿をはじめ寺の中枢部を一挙に失うほどの火災は初めてのことであった。
 
また興福寺でも五重塔と二基の三重塔の他、中金堂・東金堂・西金堂・講堂・北円堂・南円堂・食堂・僧坊や[[大乗院]]・[[一乗院]]を始めとする子院など、寺の主要建築物のほとんどにあたる38の施設を焼いたと言われている<ref>『山槐記』治承4年12月28日条。『玉葉』治承5年正月6日条。上杉2007、p104。</ref>。興福寺においても多くの仏像が焼失した。中でも南円堂の本尊[[不空羂索観音]]像は、この当時藤原氏の主流であり、摂関家も属していた[[藤原北家]]の祖である[[藤原房前]]の室[[牟漏女王]]の追善のため、夫妻の子[[藤原真楯|真楯]]が[[天平]]18年([[746年]])に講堂の本尊として造立した像であるとも、またはその子[[藤原内麻呂|内麻呂]]が発願造立した像であるとも伝えられ<ref>松島1981、p114。</ref>、その後、北家興隆の礎を築いた[[藤原冬嗣]]が[[弘仁]]4年([[813年]])に南円堂を創建した時にその本尊とされるなど北家に縁の深い像であり、また不空羂索観音が藤原氏の[[氏神]]である[[春日神|春日明神]]の[[本地垂迹|本地仏]]とされていたことから<ref>奈良市史編集審議会1994、p97。</ref>、北家の繁栄を守護する像として、主に北家に属する藤原氏一門の信仰を集め、過去の火災にも救出されてきた像であったが<ref>平田責任編集1989、p278、286。松島1981、p127。</ref>、この像も今回の兵火によって焼失した。この火災で被害を免れたのはわずかに禅定院のみであり<ref>『山槐記』治承4年12月28日条。『玉葉』治承5年正月6日条。</ref>、焼け残った仏像が後にここに仮安置された<ref>『玉葉』治承5年2月3日条。</ref>。興福寺は平安時代に入ってから何度か大きな火災に見舞われたが<ref>奈良市史編集審議会1994、p62−64。</ref>、寺域のほとんどが一挙に焼失するほどの火災は、[[永承]]元年([[1046年]])[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]、寺の西郊から出火した火が、同じく師走風に煽られて北円堂・正倉以外の建物が全焼して以来であった。
 
東大寺・興福寺を焼いた火は猿沢池を越えて興福寺の南に隣接していた[[元興寺]]との境界付近にまで達し、元興寺の子院である玉華院を焼いたが<ref>『山槐記』治承4年12月28日条。『玉葉』治承5年正月6日条。</ref>、その南にある極楽房や金堂などの主要部分にまで被害が及ぶことはなく<ref>『玉葉』同日条。</ref>、興福寺の東に隣接する[[春日大社|春日社]]やその南の新薬師寺とその周辺の民家も無事であった<ref>『山槐記』治承4年12月28日条。『玉葉』治承5年正月6日条。</ref>。その他の被害としては、東大寺・興福寺の西に位置する佐保辺りにあり、摂関家を初めとする藤原氏一門の宿泊施設であり、大和国における藤原氏関連の事務を行う出先機関でもあった[[佐保殿]]や[[率川神社|率川社]]などが焼失した<ref>同上。</ref>。また東大寺・興福寺の西郊にあった西里と呼ばれる集落も被害は免れなかったと思われるが、その被害状況については不明である<ref>奈良市史編集審議会1994、p153。</ref>。