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1941年(昭和16年)[[12月8日]]の[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])開始後は、共に軍部から危険視されていた元外務次官・駐英大使の吉田茂と接近するようになる。[[1942年]](昭和17年)の[[シンガポールの戦い|イギリス領シンガポール占領]]と[[ミッドウェー海戦]]の大敗を好期と見た吉田は、近衞を中立国の[[スイス]]に派遣し、英米との交渉を行うことを持ちかけ、近衞も乗り気になったため、この案を木戸幸一に伝えるが、木戸が握り潰してしまった。近衞に注意すべきとの東條の意向に従ったものとされる。
 
戦局が不利になり始めた[[1943年]](昭和18年)、近衞が和平運動に傾いていることを察した東條は、腹心の陸軍軍務局長・[[佐藤賢了]]を通じて「最近、公爵はよからぬことにかかわっているようですが、御身の安全のために、そのようなことはおやめになったほうがよろしい」と脅しをかけた。このことがそれまで優柔不断で弱気だった近衞を激怒豹変させた。以後、近衞は和平運動グループの中心人物になる。近衞は吉田茂らの民間人グループ、岡田啓介らの重臣グループの両方の和平運動グループをまとめる役割を果たし、また陸軍内で反主流派に転落していた皇道派とも反東條で一致し提携するなど、積極的な行動を展開した<ref name="shusenshi">{{Cite book|和書 |author=[[吉田裕 (歴史学者)|吉田裕]] |year=1992 |title=昭和天皇の終戦史 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=4004302579}}</ref>。
 
[[1944年]](昭和19年)7月9日の[[サイパン島]]陥落に伴い、[[東條内閣]]に対する退陣要求が強まったが、近衞は「このまま東條に政権を担当させておく方が良い。戦局は、誰に代わっても好転する事は無いのだから、最後まで全責任を負わせる様にしたら良い」と述べ、敗戦を見越した上で、天皇に戦争責任が及びにくくするように考えていた。