「日興」の版間の差分

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日興が日蓮のもとに赴いたのは、弘長元年(1261年)、日蓮が伊豆の伊東に流罪された時と伝えられる(日精「家中抄」)。日興は伊東において日蓮に給仕しただけでなく、周辺への弘教にも努力し、熱海の真言僧を折伏して日蓮の門下とした(日亨『富士日興上人詳伝』14頁)。
 
弘長3年(1263年)2月、日興は流罪を赦免された日蓮に従って鎌倉に入った。鎌倉での日蓮の活動拠点は松葉ヶ谷の草庵であり、日興もそこで日興より前に日蓮門下となっていた<nowiki>[[日昭 ]]</nowiki><nowiki>[[ 日朗]]</nowiki>らとともに日蓮に仕えながら日蓮の教化を受けたと思われる。
 
=== 鎌倉期の活動 ===
日蓮は日興の案内のもと、文永11年(1274年)5月17日、身延に到着した。波木井実長はさっそく日蓮が居住するための庵室の建設に取り掛かり、1か月後、横3間縦2間の簡素な庵室が完成した。日興は、それを見届けた後、直ちに甲斐・駿河・伊豆方面の弘教活動を再開した。
 
同年、日興は南条兵衛七郎の長女が嫁いでいた伊豆国仁田郡畠郷(現在の静岡県田方郡函南町)の新田五郎重綱の家を訪れ、新田家を教化している。また、重綱の5男である虎王丸(後の大石寺第3世日目)が畠郷にほど近い走湯山(伊豆社、平安時代から始まる神仏混淆の社寺。伝承によれば、起源は古墳時代以前という)で初等教育を受けていることを知り、当時、15歳だった虎王丸と対面した。日興の教えを受けた虎王丸は日興の弟子となることを決意し、2年後の建治2年(1276年)4月、正式に日興の弟子として出家得度した(『日興上人日目上人正伝』280頁)。同年11月、身延に登って日蓮に謁し、宮内卿の公(または新田卿)の名を得て(のちに<nowiki>[[ 日目]]</nowiki>と称した)日蓮に常随給仕している(日道「御伝土代」、日亨『富士日興上人詳伝』454頁)。
 
文永11年(1274年)6月以降から本格的に開始された日興の甲斐・駿河方面の弘教により、波木井氏と同じ甲斐源氏に属する秋山・大井氏が日興に帰依した。建治2年(1276年)には秋山氏出身の山伏である寂日房日華が日興の弟子となって身延に登り、日蓮に給仕するに至った。日華はそれ以前に自分自身の弟子を持っており、その中から日仙・日伝・日妙らが日華に従って日蓮門下となっている(『日興上人日目上人正伝』72頁)。
日蓮は身延において、時には100人を超える門下に対して法華経の講義・談義を行った(日蓮「曾谷殿御返事」)。その日蓮の法華経講義を日興がまとめたのが「御義口伝」、日向がまとめたのが「御講聞書」と伝えられる。両書については今日、偽書説が有力だが、両書を全く日蓮とは関係のない偽書として全面的に排除するのは偏り過ぎているとの意見もある。偽書説に反対する立場からは、日蓮が身延で法華経を講義したのは事実であり、その記録をもとに日興や日向ないしはその門下が両書を編集した可能性は否定できないとする。その場合、両書は日興門流・日向門流の立場から見た日蓮の教義を伝える書として、日蓮の思想をうかがうための重要な資料となりうるとする(須田晴夫『新版 日蓮の思想と生涯<ref>{{Cite book|和書|title=新版日蓮の思想と生涯|date=2016年8月25日|year=2016|publisher=鳥影社|author=須田晴夫|ref=}}</ref>』388頁以下)。
 
日興門流の日蓮正宗では、弘安2年(1279年)から同5年(1282年)にかけて「三大秘法口決」「<nowiki>[[ 百六箇抄]]</nowiki>」「御本尊七箇相承」「本因妙抄」などの相伝が日蓮から日興に授与され、日蓮の奥底の教義が伝えられたとする。日興門流以外の門流ではそれらの相伝を否定するが、日興と日昭・日朗・日向らとの教義理解は大きく相違しており、日興が他の五老僧と根本的に異なる主張を明確に打ち出した背景として日蓮からの相伝があった可能性があるとする見解もある(須田晴夫『日興門流と創価学会<ref>{{Cite book|和書|title=日興門流と創価学会|date=2018年9月5日|year=2018|publisher=鳥影社|author=須田晴夫|first=}}</ref>』158頁)。
 
=== 日蓮の入滅と葬送 ===
 
=== 大石寺の創建 ===
身延を離れた日興は、とりあえず自身が幼年期を過ごした養家の河合家に滞在したが、まもなく上野郷の地頭・南条時光の要請を受けて南条家に入り、その年の10月、近くの大石が原に新寺院の建設を開始した。建設に当たっては南条家だけでなく、時光の姉が嫁いでいた伊豆の新田家、甲斐の秋山家等の援助があった。翌年(1290年)10月、新寺院(<nowiki>[[ 大石寺]]</nowiki>)が完成し、日興は大石寺を拠点に門下の育成と弘教の進展に努めることとなった。大石寺での門下育成の結実として、日興は、日蓮が晩年に本弟子6人を定めた先例に倣い、自身の高弟6人を本弟子に定めた。その6人とは、日目・日華・日秀・日禅・日仙・日乗である。
 
=== 重須談所の開設と教域の拡大 ===
* 寂仙房日澄(1262年-1310年)重須初代学頭。
* [[日道 (大石寺)|日道]](1283年-1341年)大石寺第4世、重須行泉坊・大石寺塔中浄蓮坊開基。
*日妙(1285年-1365年)[[北山本門寺]]第2世、甲斐蓮花寺住
* 日郷(1293年-1353年) [[保田妙本寺]]・大窪本妙寺開基
* 日助 (?-1387年) 重須西之坊開基
 
(『家中抄』記載順)
 
===  本六人・新六人以外の弟子 ===
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* 日尊(1265年-1345年)大石寺塔中久成坊・京都上行院開基。
=== 本六人・新六人以外の弟子 ===
日尊(1265年-1345年)大石寺塔中久成坊・京都上行院開基。
 
* 三位房日順(1294年-1356年)重須第2代学頭。
 
* 日満(1308年-1360年)佐渡妙宣寺第2代・佐渡妙満寺開基。北国7箇国別当。
 
* 日行(?-1369年)大石寺第5世。大石寺塔中本住坊開基。 <br />
 
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===  在家信徒の主な門下 ===
 
* 南条時光(1259年-1332年)駿河国(現在の静岡県)上野郷の地頭。上条大石寺・下条妙蓮寺開基檀那。
===  在家信徒の主な門下 ===
南条時光(1259年-1332年)駿河国(現在の静岡県)上野郷の地頭。上条大石寺・下条妙蓮寺開基檀那。
 
* 高橋六郎兵衛(?-1275年)駿河国富士郡賀島在住。夫人は日興の叔母。
 
* 河合四郎光家(生没年不詳)駿河国富士郡西山在住。日興の叔父。
 
* 新田四郎信綱(生没年不詳)伊豆国(現在の静岡県)仁田郡畠郷在住。夫人は南条時光の姉。日目の兄。
 
* 石川新兵衛能助(?-1287年)駿河国富士郡重須の地頭。夫人は南条時光の姉。北山本門寺開基檀那・石川孫三郎能忠の父。
 
* 秋山与一信綱(生没年不詳)甲斐国(現在の山梨県)中巨摩郡中野村の地頭。
 
* 秋山孫次郎泰忠(?-1378年)秋山信綱の孫。讃岐本門寺開基檀那。
 
== 著作 ==
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