「中西功」の版間の差分

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|サイトタイトル =
|国旗 = 日本
|職名 = [[参議院|参議院議員]]
|選挙区 = [[全国区制|全国区]]
|当選回数 = 1回
|就任日 = [[1947年]][[5月3日]]
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|元首 =
}}
'''中西 功'''(なかにし つとむ、[[1910年]](明治43年)[[9月18日]] - [[1973年]](昭和48年)[[8月18日]])は、[[日本]]の[[共産主義]]運動の活動家・中国問題の政治評論家。元[[日本共産党]][[参議院|参議院議員]]。
 
== 経歴 ==
[[三重県]][[多気郡]][[西外城田村]]土羽に生まれる。三重県で学んだ後、[[1929年]]、県費生として[[上海市|上海]]の[[東亜同文書院]]に入る。学生運動を通じ、日支闘争同盟・中国共産主義青年同盟などに参加し、[[帝国主義]]の活動を行う。
 
[[1932年]]に帰国し国内活動を行うが、[[1934年]]に[[満鉄調査部]]に入り[[大連市|大連]]に赴き、調査執筆活動を行う。公然活動としては満鉄の調査業務として「支那抗戦力調査委員会」の主要メンバーとなり、中国の抗戦力を高く評価し日本の軍事活動を牽制する報告をまとめた。非公然活動では[[西里龍夫]]らと共に、[[中国共産党]]と通じ、[[毛沢東]]ら中共指導部へ情報を提供し、[[反戦運動|反戦活動]]、抗日活動などを援助していた。
 
[[1942年]]、[[ゾルゲ事件]]関連で「中共謀報団」として検挙され[[巣鴨拘置所]]に収容される。その後[[治安維持法]]違反及び[[外患罪]]で[[起訴]]され、[[日本における死刑|死刑]][[求刑]]される。[[1945年]]9月無期懲役の判決を受けるが、占領軍の釈放指令により1945年10月釈放される。
 
[[1947年]]の[[第1回参議院議員通常選挙]]に[[日本共産党]]から立候補し当選。しかし[[1950年]]1月、日本共産党の路線論争の中で党中央([[所感派]])と対立し党を除名される。当初は「[[団結派]]」を結成し反論を行なっていたが、後に参議院議員を辞職する。その後復党し、1963年まで衆院選[[神奈川県第2区 (中選挙区)|旧神奈川2区]]に出馬したが、返り咲きはならなかった。
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実弟の[[中西篤]]・[[中西三洋]]・[[中西五州]]も社会活動家。環境リスク学の研究者で[[文化功労者]]の[[中西準子]]は長女にあたる。
 
== 主な著書 ==
*『中国共産党史』
*『民主主義日本の道標』