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{{出典の明記|date=2017年9月30日 (土) 04:32 (UTC)}}
'''細川 嘉六'''(ほそかわ かろく、[[1888年]][[9月27日]] - [[1962年]][[12月2日]])は、[[日本]]の[[ジャーナリスト]]・[[政治学者]]。[[日本共産党]][[参議院|参議院議員]]。
 
== 経歴・人物 ==
[[富山県]][[下新川郡]][[泊町]]泊(現[[朝日町 (富山県)|朝日町]])出身。小学校の[[代用教員]]を経て、[[東京大学|東京帝国大学]]の[[小野塚喜平次]]を頼って上京。[[新聞配達]]をしながら[[錦城学園高等学校|錦城中学校]]に通い、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て[[1917年]]に[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝大法学部]][[政治学|政治学科]]を卒業。小野塚の紹介で[[住友財閥|住友総本社]] に入るも、ジャーナリストの夢捨て難く[[読売新聞社]]に入社。
 
さらに[[1919年]]、[[高野岩三郎]]の紹介で東京帝大[[東京大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]][[助手 (教育)|助手]]となり、高野が[[大原社会問題研究所]]設立に伴い所長として招かれると細川も大原社研入りする。
 
大原社研では[[1925年]]から[[1926年]]にかけて[[ドイツ]]・[[フランス]]・[[イギリス]]・[[ソビエト連邦|ソ連]]に留学し、ソ連で[[片山潜]]の知遇を得る(この時片山から[[米騒動]]の研究を薦められ、帰国後に米騒動の資料収集と研究を始める)。また[[大阪朝日新聞]]記者の[[尾崎秀実]]や[[立憲民政党]]の[[衆議院|衆議院議員]]だった[[風見章]]とも知己となり、その後協力して「支那研究室」を運営してもいる。
 
しかしながら、こうした交友関係は官憲から[[左翼]]的・[[共産主義]]的と見られることも多く、[[1933年]]には共産党シンパ事件の余波で[[治安維持法]]違反容疑で検挙、[[1941年]]にも[[ゾルゲ事件]]に絡んで検挙されている。[[1942年]]には『[[改造 (雑誌)|改造]]』誌上に「世界史の動向と日本」を発表、この論旨を巡って[[大日本帝国陸軍|陸軍]]報道部に摘発され、細川は元よりかねてより交際のあった『改造』『[[中央公論]]』の編集者や研究者が[[逮捕 (日本法)|逮捕]]された([[横浜事件]])。
 
終戦後の[[1945年]][[9月4日]]に[[保釈]]、[[9月10日]]に横浜事件に関して[[免訴]]となる(なお同年11月、細川が中心的よびかけ人となって横浜事件の被害者33名が共同で[[神奈川県警察部|神奈川県]][[特別高等警察|特高]]を特別公務員暴行傷害罪として告発、[[1952年]]4月に[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]で特高警官3名に有罪判決が下った)。
 
[[1947年]]4月の[[第1回参議院議員通常選挙]]で日本共産党公認で[[全国区制|全国区]]から出馬、当選して初代の党国会議員団長となる。[[1950年]]の[[第2回参議院議員通常選挙]]でも当選するが、[[1951年]]9月に占領政策に反したとして逮捕される。[[不起訴処分]]となったが、[[公職追放]]([[レッドパージ]])を受けた。
 
同年、風見章の後援を得て「アジア問題研究所」を設立し主宰、また別に「国際事情研究会」(のちに[[ジャパン・プレス・サービス社]])を創立。