「日ソ基本条約」の版間の差分
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== 締結に至る経緯 ==
1917年(大正6年)の[[ロシア革命]]で[[
長春会議決裂と日本軍撤兵にともなって、ソ連は極東地区における緩衝国として維持していた[[極東共和国]]を廃止して併合し、1923年(大正12年)より日ソ国交正常化のための直接交渉に入る。中国の[[北京市|北京]]で行われた交渉は、同年の予備交渉を経て1924年(大正13年)5月から日本側代表[[芳沢謙吉]]とソ連側代表[[レフ・カラハン]]の間での正式交渉に入り、1925年(大正14年)1月20日に至って北京で日ソ基本条約が締結された。
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== 条約調印に至る日本側の背景 ==
またソ連は、極東では混乱の渦中にあった中国との連携を図っており、まず1919年(大正8年)の[[カラハン宣言]]では、中国との対等関係の国交の樹立、中東鉄道([[東清鉄道]]が改称)の還付を約束し、さらに[[広東省|広東]]の[[孫文]]政権に協力した。日本は満洲を根拠とする軍閥[[張作霖]]を篭絡していたものの、叛服常なき張を扱いかねていた。こうした中にあって、中国での権益を守るためにも国交を樹立すべきことを真剣に唱えたのが、初代[[南満州鉄道|満鉄]]総裁で[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]の経験もある[[後藤新平]]だった。後藤は、日本が極東で利権を確保するためにはイデオロギーの問題に捉われずにソ連と友好関係を結ぶことが必要であり、また[[ワシントン海軍軍縮条約|ワシントン条約]]で日本が列国に閉塞させられた状況を打開するには国際秩序にソ連を再び引きずり込む必要があると考えた。こうして後藤は右翼勢力の反発がありながらも交渉に取り組む。
[[ポーツマス条約]]で日本が得た沿海州沿岸の漁業権と並んで日ソの交渉の中で問題となったのは、日本軍が駐留を続ける北樺太に眠ると見られていた石油・石炭資源の利権を巡る問題だった。交渉の結果、ソ連側は駐留日本軍の撤退と引き換えに北樺太の天然資源の利権を日本側に与えることで決着した。この際に「北樺太から撤兵した後に5か月以内に石油利権契約を締結」と定められ、日本は取引材料を返還した後に交渉に臨むこととなり、後年に両国関係が悪化しソ連から操業妨害を受けたときに対抗しにくい契約となった<ref>岩瀬昇 『日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか』 文春新書 kindle770/2801 (2016年)</ref>。こうして日本側は出兵の代償をわずかに確保して面子を立て、日ソ基本条約に調印するに至った。
== 脚注 ==
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