「京成AE形電車 (初代)」の版間の差分

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「スカイライナー」という空港特急の名称、ならびにAE形車両の[[鉄道の車両愛称|愛称]]は公募により、1972年には決定していたものの、1973年春に供用開始を予定していた新東京国際空港は、地元住民の反対運動や[[過激派]]の[[三里塚闘争]]から開港が延期された。本形式も、落成した後の1973年2月から新線区間で試運転を開始した<ref name="omo-101"/>ものの、新線区間の橋梁に[[時限爆弾]]が仕掛けられたために試運転も中止となり<ref name="omo-101"/>、約1年半ほど雨ざらしの憂き目にあった<ref name="omo-101"/>。
 
1973年12月30日から、愛称表示器に「特急」を掲出して<ref group="注">「空港特急」の表示を掲出して留置されていたが、こちらは使用されることなく終わった。後に「スカイライナー」も掲出するようになる。</ref>京成上野 - 京成成田間の[[スカイライナー#AE形電車登場以降|ノンストップ特急]]として暫定的に1日1往復、翌1974年12月16日からは増発されて3往復運行されるようになる<ref>『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』([[交友社]])1978年2月号より。</ref>。この暫定使用については、当時の[[運輸省]]がなかなか認めず、当時の運輸部運転課長であった[[藤井浩二]]ら、京成電鉄関係者が自らの窮状を訴えて、ようやく認められたものである。それでも運用上は一日に1~2本あれば十分の為他の車両は留置され続け、車両の痛みも目立ってきた
 
その後、開港が1978年[[3月30日]]と[[内閣総理大臣]][[福田赳夫]]が決定し、再び新線区間での試運転を開始したが、[[3月26日]]に[[成田空港管制塔占拠事件|管制塔占拠事件]]により開港は延期<ref name="omo-101"/>。さらに、空港開港直前の同年[[5月5日]]未明、建設に反対する過激派によって[[京成スカイライナー放火事件]]が発生<ref name="omo-101102"/>。[[京成電鉄の車両検修施設#宗吾車両基地|宗吾車庫]]に留置中の第3編成が被災し、その中でもAE29は全焼した。