「伴信友」の版間の差分

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== 来歴 ==
[[若狭国]][[小浜藩]]の藩士山岸惟智の四男として生まれる。幼名は惟徳、通称州五郎。号は事負。[[天明]]2年(1786年)、同藩の伴信当の[[養子]]となる。[[享和]]元年(1801年)村田春門を介して[[本居宣長]]没後の門人となり、宣長の養子[[本居大平]]に[[国学]]を学ぶ。[[文政]]4年(1821年)、病により家督を息子[[伴信近|信近]]に譲り、以後学問に専念し江戸に住んだ。[[天保]]14年(1843年)の末頃、藩主[[酒井忠義 (若狭国小浜藩主)|酒井忠義]]に従い[[京都]]に赴き在住するが、堀川の[[京都所司代]]邸で急病となって死去した。享年74。
 
博覧強記で古典の考証に優れ、[[平田篤胤]]、[[橘守部]]、[[小山田与清]]とともに、「天保の国学の四大人」と呼ばれる。篤胤や[[黒川春村]]、[[本居内遠]]などと交流があり、篤胤からは君兄と慕われていたが、後に齟齬を来して決別した。師弟関係を好まず、弟子をとることはなかった。なお信友の生家近くで墓所のある発心寺の境内には、「伴信友翁の碑」がある。
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