「戴季陶」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
25行目:
[[1909年]]に学費がつきたので上海に戻り、江蘇地方自治研究所の主任教官をした後ジャーナリズムの世界に入り、その間に中国古来の学問素養を身につけ始めた。[[1910年]]に上海日報社と天鐸報の記者となり、総編輯として社説を書き文名を知られはじめる。国民党の元老といわれるようになる[[于右任]]の『民呼報』にも寄稿をする。
 
[[1911年]]に結婚。『天鐸報』が筆禍事件を起こしたため、[[マレー半島]]の[[ペナン]]へ亡命し華僑の雑誌(新聞)『光華報』を出して革命を鼓吹する。[[中国革命同盟会]]に入り、[[武昌蜂起]]ののち上海に帰り、『民権報』を創刊。アメリカから帰った[[孫文]]と会う。[[1912年]]に孫文の秘書となる。[[1913年]]に日本へ亡命、[[1916年]]に帰国。この間、孫文の日本訪問における重要な会見・演説の通訳を務め、[[桂太郎]]や[[犬養毅]]と交渉があった。[[1917年]]に[[張勲 (清末民初)|張勲]]が満州王朝の[[張勲復辟|復辟]]を企てたため、孫文の命により[[田中義一]]や[[秋山真之]]などに会い、日本政府の態度を調査している。[[1919年]]に[[胡漢民]]・[[廖仲ガイ|廖仲愷]]・[[朱執信]]らとともに孫文を助けて『建設雑誌』を出す。[[五四運動]]を評価し合作社の問題などにも興味を持っていたという。[[1920年]]、証券物品交易所を経営して、株に手をつけ翌年に不渡手形を出して失敗。1920年には[[陳独秀]]とともに[[中国共産主義青年団]]の前身である社会主義青年団を設立するも1921年に結成された[[中国共産党]]には参加しなかった<ref>范小方・包東波・李娟麗『国民党理論家戴季陶』(鄭州: 河南人民出版社, 1992 5 月初版、132頁</ref>。雑誌に[[カウツキー]]の『[[資本論]]』解説の翻訳をのせたこともあり、このころはマルクス主義に接近していた。
 
[[1923年]]の秋、[[中国国民党|国民党]]の[[国共合作]]について廖仲愷と対立。廖仲愷が[[容共]]政策を主張したのに対し、戴季陶は国民党のリーダーシップを維持するために共産党員が党籍を捨てて国民党員になるべきだと主張した。当時の中国共産党は[[コミンテルン]]の指導に盲目的に従っており、中国民族の革命をロシア一国の利益のために犠牲にする可能性があり、そのことに危惧を覚えていたためと考えられる。