「乃木静子」の版間の差分

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m 三浦直人「伊藤博文をハクブンと呼ぶは「有職読み」にあらず:人名史研究における術語の吟味」『漢字文化研究』7,pp21-41,2017年3月.
(1)旧姓「湯地」のヨミが「ゆち」であることに出典を提示。(2)死の場所となった乃木邸、及び夫・希典の遺書についての言及を校訂。旧・乃木邸は東京市に寄贈されて大正2年に乃木公園となっており、隣接地に乃木神社が創建されたもの。(3)兄で海軍機関中将の湯地定監について、名前のヨミを「さだのり」と明記(出典:日本陸海軍総合事典)。「『ていかん』と呼ばれることが多い」旨の無出典記述(出典要求タグ貼付)を除去。
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== 生涯 ==
[[File:Shizuko Nogi birthplace monumant.JPG|thumb|生誕地(鹿児島市甲突町)]]
[[安政]]6年([[1859年]])11月6日、[[薩摩藩|鹿児島]][[藩医]]・[[湯地(ゆち<ref name=":0">{{Harvnb|志甫|2008|p=100|pp=|loc=}}</ref><ref name=":3">{{Harvnb|秦|2005|p=265|pp=|loc=第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-湯地定監}}</ref>)定之]][[湯地貞子|貞子]]夫妻の4女(7人[[兄弟姉妹]]の末っ子)として[[薩摩国]][[鹿児島郡]]鹿児島近在塩屋村(現在の[[鹿児島県]][[鹿児島市]][[甲突町]])に出生。[[幼名]]は'''お七'''、または'''お志知'''。
 
[[明治]]5年([[1872年]])[[12月2日]]、[[数え年|数え]]14歳の時に海外留学から帰国した長兄・[[湯地定基|定基]]に呼び寄せられる形で家族揃って[[東京]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]溜池2番地の湯地定基邸に転居し、[[麹町区]]の麹町女學校(現・[[千代田区立麹町小学校]])を卒業した<ref name="nnp">『乃木静子』(冬湖・[[宿利重一]]著、春秋社、昭和12年、「年譜」)には[[明治7年]]に[[麹町区|麴町元園町一丁目]]附近の麴町女學校に入學し[[初等教育]]を受けたとある。当時、当地で[[女性]]に初等教育を施す同名學校は現在の[[千代田区立麹町小学校]]の前身である麴町女學校である。なお、[[麹町学園女子高等学校]]の前身である麴町女學校は、[[明治38年]]9月12日に[[大築佛郎]]が私財をなげうって[[麹町区|麹町元園町二丁目四番地]]に創立した女性に[[高等教育]]を施す學校である。</ref>。
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全ての子供を先に亡くした静子は、そのショックから生きた感じを見受けられないような外見になっていたといわれる。晩年は[[盆栽]]などをわずかな楽しみとしたといわれる。
 
[[1912年]](明治45年)7月、[[明治天皇]]が[[糖尿病]]により崩御、その後の1912年(大正元年)9月13日、明治天皇を追って[[殉死]]した夫・希典と共に乃木邸(現在の[[東京]][[赤坂 (]]新坂町(現:[[東京都)|]][[港区]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]八丁目)の自邸(希典の遺志あるより[[東京市]]に寄贈され、[[1913年]](大正2年)に「乃木神社公園」として開園し、1950年(昭和25年)以降は東京都港区が管理している<ref (name=":1">{{Cite web|title=乃木公園|url=http://www.city.minato.tokyo.jp/shisetsu/koen/akasaka/05.html|website=東京都港区) 公式サイト|accessdate=2019-08-13|language=ja|last=|publisher=|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190813170811/https://www.city.minato.tokyo.jp/shisetsu/koen/akasaka/05.html|archivedate=2019-8-13}}</ref>。園内に乃木神社邸と[[厩舎]]が保存されている<ref name=":1" />。)にて胸を突き死亡した。[[享年]]54(満52歳)。
 
夫・希典が直前に書いた遺書は、死後のことで不明な点は静子に聞くよう遺書に残し記されおりいた<ref name=":2" />。すなわち希典は記載遺書を書いた時点では静子の生存が自分と共に死ぬことを想定していなかっ<ref name=":2">大濱徹也 『乃木希典』 p290、講談社〈講談社学術文庫〉、2010年12月。ISBN 978-4-06-292028-5。</ref>
 
== 家族 ==
=== 乃木家 ===
* [[乃木希]](1805(1849-1877)1912) - 義父
* 乃木壽子
* [[乃木希典]](1849-1912) - 夫
* [[乃木勝典]](1879-1904) - 長男
* [[乃木保典]](1881-1904) - 次男
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=== 湯地家 ===
「湯地」は「ゆち」と読む<ref name=":0" /><ref name=":3" />。
 
* 父 - 湯地定之(さだゆき):[[薩摩藩|鹿児島藩]][[侍医]]。
* 母 - 湯地貞子(さだこ):鹿児島藩士である池田家の娘で、結婚前の幼名は天伊(てい)。次女・三女の結婚後の名前に「てい」の読みがあるのは実母の幼名から採られている。
* 長兄 - [[湯地定基]](さだもと):[[貴族院 (日本)|貴族院]]勅撰議員、[[根室県|根室縣]][[県令|令]](1843-1928)。
* 次兄 - [[湯地定廉]](さだかど):[[大尉|海軍大尉]]<ref>{{Cite book|last=1896-|first=Ōue, Shirō,|title=Meiji kakochō : bukko jinmei jiten|url=https://www.worldcat.org/oclc/21455101|edition=Shintei shohan|date=Shōwa 46 [1971]|publisher=Tōkyō Bijutsu|isbn=4808701197|location=Tōkyō|last2=1896-|first2=大植四郎,|oclc=21455101}}</ref>。
* 末兄 - [[湯地定監]](さだのり<ref name=":3" />):[[中将|海軍機関中将]]、貴族院勅撰議員。{{要出典範囲|名は「ていかん」と読まれることが圧倒的に多いが、これは誤読である。通称と考えられる|date<ref name=2019年5月}}":3" />
* 長姉 - 名前不明:夭折。永らくの間は次女と同一人だとされていたため、名前も「馬場貞子」と思われていた。
* 次姉 - 幼名不明:結婚後に馬場貞子(ていこ)となる(母親の名前と同じ字画なので区別するためとわれる)。姉の夭折により実質的な長女として育てられたため、永らくの間は本来の長女の名前が馬場貞子であるとされ、次女である当人が夭折したとされていた。自決した希典・静子夫妻の遺体を発見したのは彼女である。
* 末姉 - 湯地お六:結婚後に[[柴テイ]]となる(てい・てい子・テイ子などと表記する文献もある)。静子と最も歳が近いため、特に仲が良かったといわれる。
* 甥 - [[湯地孝]]:[[国文学者]]。定監の子。
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== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
*{{Citation|和書|last=志甫|first=哲夫|year=2008|publisher=ショパン|isbn=978-4-88364-258-8|ref=harv|title=SPレコード - その限りない魅惑の世界}}
*{{Citation|和書|last=秦|first=郁彦 編著|authorlink=秦郁彦|year=2005|title=日本陸海軍総合事典|edition=第2|publisher=[[東京大学出版会]]|ref=harv}}
 
== 関連作品 ==