「谷繁元信」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
タグ: 取り消し |
|||
49行目:
プロ1年目の{{by|1989年}}は[[下関球場]]で行われたオープン戦で巨人・[[斎藤雅樹]]から本塁打を放つなど結果を残すと監督の[[古葉竹識]]に抜擢され、高卒1年目にもかかわらず開幕一軍入りを果たした。公式戦初打席で初安打を放つと一年目から一軍にフル帯同し、出場80試合、打率.175、3本塁打、10打点という成績を残す。
{{by|1990年}}に[[須藤豊]]が監督に就任すると、[[埼玉西武ライオンズ|西武]]から獲得した[[秋元宏作]]と併用されるようになり、前年まで正捕手だった[[市川和正]]は第3捕手へと追いやられた。
しかし{{by|1992年}}、シーズン中に休養した須藤に代わりヘッドコーチから監督代行に昇格した[[江尻亮]]からはリード・打撃ともに評価されず、一時出場機会を失った。
球団名が「横浜ベイスターズ」へ改称された{{by|1993年}}には「捕手だと『1』の数字が防具に隠れて見えない」という理由から背番号を'''8'''に変更。[[近藤昭仁]]が監督に、[[大矢明彦]]がバッテリーコーチに就任し、大矢からリード面を中心に守備を徹底的に鍛えられる。それでもしばらくは秋元との併用が続き、先発出場していた試合でも抑え投手の[[佐々木主浩]]が登板すると、「佐々木のフォークボールが取れない」、「暴投時に谷繁は手で捕りに行くが、秋元は身体で止めに行く<ref>赤坂英一「キャッチャーという人生」 講談社</ref><ref>[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/31624?page=6 二宮清純レポート]</ref>」との理由から秋元に交代させられていた。また肩は強かったものの、リード面での評価もあまり高くはなかった。
|